オカマと不思議ちゃんの日常

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はいみなさんこんにちは。

昨日、能町みね子さんというエッセイストの存在を知り、今日、彼女のエッセイを実際に読んでいます。

さらっと読めて非常に面白い。

能町さんは、いわゆる「性同一性障害」で、M to Fなのですが、俄然美しいです。

スタイリッシュな女性という感じです。

さて、その彼女のエッセイの中に、こんな内容が書かれてありました。

性同一性障害ではなく、日常は男性として生きつつも、あくまでも趣味として女装している人もいる。

ただ、そんな女装さんに対して、「性同一性障害」を名乗る人の中に、極端な拒否感を覚える人がいるそうです。

私は当事者ではないんですけど、「性同一性障害はこうじゃなきゃいけない、そうじゃないと私の苦労が報われない」って思ってる方もいるかもしれません。

でも、性って、スペクトラム、要するにグラデーションのようなものなんじゃないかなと思ってます。

私自身はどこまでいっても女のストレートなんですけど、男女のどのグラデーションの中にいる人でも、美しいと思う人は素直に美しいって思うし、マイナスのイメージは無いです。

逆に、性はこうあるべきで、性同一性障害はこうであるべき、って思う人は、しんどい生き方してるなって、個人的には思います。

例えば、私はADHDという発達障害を持っているんですけど、発達障害って、現在、自閉症スペクトラムって言われたりしてるんですね。

一概に「こういう症状だからこう」とかっていう型にはめることは難しいんですね。

そもそも、福祉や医療の観点からの理由でカテゴライズするメリットはありますが、日常生活においてカテゴライズしすぎるのは、非常にナンセンスだと思うんですよね。

何とか障害とか、なんとか病とか、それ以前に、人間であれば皆美しいんですよ。

人間であることに尊厳があるのに、なぜ我々はカテゴライズしたがるんだろう。

また、自分の性や発達に対して、自己受容する時間って、とっても大事だと思うんです。

私は女なんですけど、自分が女体を携えて生きているということを納得させる時間が、あまりにも短かったんですよ。

貧困家庭で育ったので22歳までは透明な存在でしたし、23歳からは既にホステスという女を切り売りする職業に就いてましたし、女性性を切り売りする以外に、自分の女性性を享受する方法が見つからなかったんですね。

もっとじっくり、子どもの頃から、色んなマンガとか読んで、「女性」というものに対して、きちんと対峙できる時間が欲しかったですね。

発達障害に対しても同じく、私は社会人になってから診断され、ストラテラという薬を処方されることで、見違えるように世界が変わりました。

でも、子どものときに診断されてれば、まだあそこまで透明な存在にならずに済んだのかもしれません。

私の親世代までは、あまりにも「普通」にこだわり過ぎる風潮があったように思います。

「自分の子どもが障害を持ってたら、世間からマウンティングされる」とか、思う世代だったんだろうなと思います。

人間は、人間であるだけで、それだけで美しいのに、なぜ社会は、人に、「普通」をそこまで押し付けるのでしょうか。

量産性功率型人材だけで社会を回そうとしているのでしょうか。

量産性功率型人材だけを求める社会は、きっと誰をも幸せにはならないでしょう。

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