ちょっと詳しい茶道の歴史

日本文化

はいみなさんこんにちは。今日は、ちょっと詳しい茶道の歴史について書いていきたいと思います。

茶の木は、インドのアッサム地方や中国雲南(うんなん)省、四川(しせん)省あたりが原産地だったとされています。

茶を飲む習慣は唐の時代に大流行しました。

唐の時代の陸羽という人物が、「茶経」を書き記しました。

日本においては、奈良時代にはすでに茶が飲まれていました。ただし、この時代の茶は抹茶ではなく、中国式の団茶でした。

805年、延暦寺を開いた最澄が、唐から茶を持ち帰って植えたと伝えられています。

また、「日本後紀(にほんこうき)」に嵯峨天皇の喫茶の記事があります。815年、嵯峨天皇は近江の唐崎に行幸(ぎょうこう)する途中、梵釈寺(ぼんじゃくじ)に立ち寄りました。

その折、梵釈寺で永忠(えいちゅう)という僧が茶を煎じて天皇に捧げました。

鎌倉時代には、それまでの茶法に代わる新たな茶の飲み方が、栄西という僧によって宋から伝えられます。

栄西はこのとき、日本で最初の茶に関する書、「喫茶養生記」を記しました。

栄西が伝えた抹茶は、薬効を期待するものでした。

鎌倉時代、中国の色んなものが日本に輸入されました。それらは「唐物」と呼ばれ、喫茶にも用いられました。

唐物を使って茶を飲む場所は、「会所」と呼ばれました。

会所は、和歌や連歌(れんが)などさまざまな芸能の場としても使われました。

室町時代、宋との貿易が盛んになった。この時代に日宋貿易で集められた唐物は、東山御物(ひがしやまごもつ)と呼ばれました。

室町時代の会所の飾りつけをしたのは、能阿弥ら同朋衆たちでした。

同朋衆は、厳格な身分制度にとらわれず将軍の身近に仕えました。

同朋衆は、座敷飾り、唐物の保管、茶の湯などを担っていました。

室町時代には、抹茶の産地を飲み当てるゲーム、「闘茶」が行われました。

京都栂ノ尾産の茶を本茶、それ以外の産地の茶を非茶として遊びました。

闘茶などに代表される派手な行為や衣装などは「バサラ」と呼ばれました。

室町時代後期、茶は大きな展開をとげます。

唐物の美術工芸品の鑑賞に喫茶が結びついたこれまでの形から、精神性を前面に押し出した茶の湯が芽生え始めたからです。「侘茶」の誕生でした。

侘茶の創始者とされるのが、村田珠光です。

村田珠光は、奈良から上洛して能阿弥に茶を学びました。また、大徳寺の一休宗純に参禅し、茶禅一味の境地を開いたと言われます。

彼は、「冷え枯れる」精神が必要だと述べ、さらに和ものと唐物を融合させて一体となった茶の湯を行うべきであるとしていました。

村田珠光によって創始された侘茶をさらに進めたのは、武野紹鴎です。

武野紹鴎は、新たな茶道具を作り出しました。「紹鴎袋棚(ふくろだな)」や「鶴瓶(つるべ)水指」、「竹置蓋(たけおきふた)」などが代表的なものです。

この時期に、新たな茶の湯の記録が現れることになります。茶会の客や道具などを記した茶会記です。

最も早く書き始められたのは、「松屋会記」です。千利休の茶会なども収録されています。

ついで、天王寺屋による「天王寺屋会記」が書き始められました。

安土桃山時代、織田信長は、名物茶道具を強制的に買収する、「名物狩り」を行いました。

信長は、買収した名物道具を用い、茶会を行いました。

このようにして信長は、茶の湯を中央政治に結び付けました。

その後、信長は本能寺の変で滅び、信長の後継者となったのは、豊臣秀吉でした。

1587年、秀吉は、京都の北野天満宮で大規模な茶会を行いました。

この茶の湯で秀吉は、自分が天下人として茶の湯の保護者であることを誇示しました。

この時代、千利休は、茶の湯を「わび」に徹した形にしようとしていました。

そして、二畳敷の茶室、待庵を作りました。

利休亡き後は、古田織部細川三斎などによって茶の湯がリードされました。

古田織部は美濃出身の武将です。

織部は、ひずみと表現される、ゆがんだ形の茶碗を好んだ。

金森宗和は飛騨高山の出身です。宗和は、野々村仁清を指導して優美な焼き物を作らせ、茶の湯の世界に大きな影響を与えました。

小堀遠州は近江の出身である。作事奉行(さくじぶぎょう)として伏見城、大阪城、仙洞御所などの建設に活躍しました。そして遠州は、武家の茶を作り上げました。

千利休の子孫の3人が、表千家、裏千家、武者小路千家の三千家をつくりあげました。

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