はいみなさんこんにちは。
今日は、人は生きるにおいて基礎が大事なんじゃないかと思う、という話をしていきたいと思います。
まず、私は、書道作品を書いているんですが、私は、基礎である、楷書、行書、草書、隷書からブレない作品を書いていきたいと思っています。
世の中には、「書道は自由であるべき」とか、「書道したことない人にも書道アートという道が開かれている」とか、色んな話があるかと思いますが、
私は、基礎の美しさを知った上で、書道に携わっていきたいと思っています。
正直、基礎を知らない人が書いた書道アートって、みんな、似たり寄ったりだし、分かるし(笑)
筆の動かし方の基礎を知ってる人の書いた書道アートとかの方が、やはり自由度が高く、開かれているなと感じます。
基礎の美しさを知らないまま、基礎をすっ飛ばして書道アートをするのは、非常にもったいないと私は思います。
基礎には基礎の美しさがあり、歴史があります。
心理学の話もそうです。
私は大学で心理学を専攻していたのですが、心理学にも、基礎心理学と応用心理学があります。
学閥とか、権威とか、研究費が下りる下りないとか、色々ありますが、
学問というのは、基礎と応用の両輪があって初めて成立するものだと思っています。
また、クラシック音楽を聴くという話にも繋がります。
私は、クラシック音楽を結構聴く方です。
なので、クラシック音楽の歴史などは一通り学んでいる方です。
あるとき、佐村河内 守(さむらごうちまもる)という人物が作曲したとされる『HIROSHIMA』が、ものすごく売れたという話がありましたね。
それは、普段クラシックを聴かない人が手に取ったからとても売れたと言われています。
しかしその曲は、ゴーストが作曲したことが判明されましたね。
私は、その曲のことをずっと知りませんでしたし、ゴースト問題で盛り上がったときに初めて知りました。
基礎を学んでおくと、まやかしにひっかからなくて済む、というメリットがありますね。
話は戻しますが、実は私も、高校生の時、やたら「変わった文字」を書道で書きたいと思っていたんですね。
しかし、書道の先生に「変わった文字」って言っても、伝わりません。
当時、隷書とか篆書とかを「変わった文字」と私は表現していたのですが、
相手に伝えるには、やはり勉強が必要なわけです。
自分の世界を広げたかったり、最先端なものに触れたかったり、
落合陽一先生みたいな、ちょっと何してる人かわかんない人をわかろうとしたい場合などのときは、
基礎の勉強をするしかスタート地点にはつけないんですよね。
勉強しないまま、「落合陽一ってすげー」とか、「俺、落合陽一のオンラインサロンに入ってるんだ」とか、そんなこと言って満足したとしても、実際、何も進展してないですし、何も吸収できてないと思います。
はい。
私も落合先生大好きなんですが、落合先生を理解するには、まず物理学の波動について学ぶ必要がありますね。
(ちなみに、落合先生のツイッターアカウントがスタッフによって管理された直後に私はアカウントブロックされました)
メンタリストDaigoとかもそうですよね。
彼のニコニコ動画に課金しまくっても、幸せにはなれません。
稼ぎたい人だったらマコなり社長やブロガーのマナブさんしかり。
崇拝することが幸せに繋がるならどうぞお好きなように、と思いますが、
「この人がこう言ってるからこうなんだ」という事実よりも、
一般的事実の方が、信頼性は高いように思います。
まとめますが、私は、自分の、「落合先生が大好き」という個別的事実と、
一般的事実は、分けてます。
「好き」と「事実」は分けて考えた方がよいと思います。