日本文化観光という欺瞞

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はいみなさんこんにちは。

今日は、森神逍遥著『侘び然び幽玄のこころ』を読みました。

圧巻でした。

最高でした。

今日は読後感想文と、ちょっと私の話も盛り込んで書いていこうと思います。

まず、私が自身の「日本人」を意識したのは、中学3年生のときでした。

当時は「みんな仲良く」みたいな日本の教育が嫌で、

というか毎日勉強と部活の日常に嫌気がさして、

2週間、オーストラリアでホームステイしました。

そのときに、シドニーのオペラハウスを見ました。

とても美しかったのを覚えています。

はてさて。私は自分の国の魅力をどれほど知っているだろうか。

そんな疑問にたどり着いたのです。

そしてそのまま高校生になるのですが、高校生のときに、元芸妓である岩崎峰子さんが書いた本と出会います。

それで私は京都の大学進学を決意するのですが、母の手違いにより、地方文系私立大学に入学することとなり、ゾンビのように大学生活を送りました。

大学を卒業後、念願だった京都に住み、夜は祇園のクラブでホステスのアルバイトをしながら、昼間は日本舞踊を習ったり茶道を習ったり、京都観光したり日本文化にまつわる本を読んだりと、非常に充実した日々を送っていました。

そのあと、外国人観光客向けの、茶道体験サロンで働くこととなりました。

そのサロンに入社してすぐに、数枚の英文が書かれたプリントが渡されました。

私はそれを読み、「こんな薄っぺらい内容でお客さんは『日本文化』の納得をするのかな」と思っていました。

その後私は沖縄の石垣島で海に戯れ、

現在はご縁あって横浜でOLをすることとなりました。

OLのお給料だと、どうしても茶道や日本舞踊の月謝が捻出できません。

日本文化に携われない私は、ついぞ日本文化を理解する資格がないのか?

果ては日本人失格なのか?とすら思い、焦っていました。

そんな折、『侘び然び幽玄のこころ』を読みました。

圧巻でした。

「侘び」とは、陰性を基調とする美であり、「貧困」「悲観」「不足」「脱俗」をより哲学的に昇華した趣のある美意識である。

「侘び」と「幽玄」の本質は、茶道や俳諧などには存在しない。

「侘び然び」とは、金のかかった茶室で高価な着物を着て一人独尊を気取っているときではない。

そして、私の好きな一休宗純にも言及されていました。

一休は只管ボロをまとい、貧乏を徹していた。

「清貧枯淡」が禅の本質だと説く一休のそのみすぼらしい姿にこそ「侘び」の本質を人々は見出していた。

なんとまあ潔く言い切ってくれることでしょう!

私は常々、アンティーク着物を買うお金があればなぜか本を買ってしまう

お洋服や化粧品を買うお金があれば本を買ってしまう

そういう自分をあまり好きになれませんでした。

しかし、あぁ私はこれでいいんだ、と思いました。

そして、私の今までの苦しみや苦労、悩みは、無駄では無かったんだ、という答えに辿り着きました。

さらに、私が今まで読んできた、高尚でお行儀のよい、いい子ちゃんぶった色々な茶道の本に対して、「なんだかしっくりこないな」とも思っていたことに罪悪感を覚えていましたが、全然罪悪感なんて感じなくてもいいと思えるようになりました。

日本史の歴史上人物だったら、後醍醐天皇、大伴家持、一休宗純が好きだったから、

いい子ぶって「千利休はすごい人」とは思わなかった。

エエトコのぼんぼんやお嬢様らがこぞって金持ち茶道を通して「わびさび」を語ってるの、滑稽に思ってた。

金持ちぼんぼんやお嬢様は、ざわざわ「わびさび」を語らなくても、藤原氏をルーツとする雅で豪奢な文化を語っていればいいのに、と思っていた。金のかかった茶室で茶を嗜んで、何が「草庵の茶」なんだろうと思っていた。

私がアルバイトをしていた茶道体験サロンもそう。体験はどこまでいっても滑稽で「非日常」なんですよね。

日本文化って、ミルフィーユのようで、雅な藤原氏の文化もあれば、武士の文化もあって、百姓の文化もあれば特定職能民の文化もある。それをすべて観光ビジネスが「わびさび幽玄」って言葉で切り売りするあたり、傲慢さを覚えてしまいます。

そこで私は思いました。

茶道って、再帰的な「わびさび生活ごっこ」という演劇なのではないかと。

茶室という空間こそが、仮想現実、VRの世界なのではないかと。

茶道を習うお金がなくたって私は日本人だし、歴代の日本人が担ってきた「侘び然び」という気持ちが理解できる。

私はこれからも、どんどん本を買って読んでいこうと思いました。

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