茶の湯入門

12世紀、高麗では、宋風の茶が宮廷を中心として人々に楽しまれていた。当時、朝鮮と日本は非常によく似た茶の受け入れ方をしていた。

1392年、李氏朝鮮が成立した。李朝は厳しい儒教思想を施政の方針としていた。

茶は仏寺とともに儒教からの批判を受けるようになった。

日本では宋風の抹茶がますます盛んになっていったのに対し、朝鮮半島では茶の文化が衰退していった。

にじり口を利休が思いつくきっかけは、川辺に浮かぶ舟だった。

川舟のなかこそ運命共同体なのではないか。

日常的な世界が、なんの制約もなく流れ込んでくることを拒否する口であり、やっとの思い出くぐりぬけることによって、世界が一転するという宗教性すらも、にじり口は持つ。

穢れとは、「気が枯れる」

→われわれは気が体内から失われることに異常な警戒を持って生活してきた。

そのために、お籠りをすることで気を取り戻すことを試みたのだろう。

茶会とは、4時間、主客と茶室に籠ることで、気の充実をはかるということではないか。

日本文化の底に流れている、人間と人間の距離をはかる感覚が、欧米人とはまた違う。

茶室の中というのは、そもそもはじめから、混み合いの特異な緊張を作り出す装置なのではないか。

遊興性が茶から次第に失われ、茶が、緊張したハレの場となるとき、茶室はより狭くなり、人々は接近し、座り方は安坐や片膝から、かしこまる正座へと変質した。

中世の将軍に近侍した同朋衆たちは、「能阿弥」「芸阿弥」と阿弥号を名乗った。

この阿弥号は、時宗の法名阿弥陀仏の略。

時宗の阿弥号を名乗ることによって、世俗の身分を超えることが出来た。

同朋衆は低い身分の出身者が多かったが、貴人のそばにひかえる必要があったので、貴人と同座するためには俗世の身分にとらわれない法体をとった。この法体を名前で表現したものがいま言うところの茶名(宗なんとか)であり、かつては阿弥号であったと言える。

半僧半俗の茶人の姿を、呼称で示したのが茶名であるとすれば、見た目で表現するのは十徳である。

現在も十徳は思性のしかるべき資格をもった茶人の正装とされている。

古来、日本の数寄の世界は仏門への隠遁と深く関わってきた。

数寄の道に沈潜するための遁世、すなわち数寄の遁世の姿をとることが日本の芸道の習いであった。

しかし、遁世といっても出家ではない。普段は世間の仕事をする俗人である。半僧半俗。

これが紹鴎、利休以来の茶人のあり方だった。

本物ではなく、本物以上に思いがけぬものでつくってみせるところが趣向である。

これは「もどき」の面白さである。

「もどき」と同じ心のはたらきながら、あわれを語感としてあたえる言葉は「やつし」である。

わび茶の精神は「もどき」と「やつし」にあった。

わび茶人は所詮本物と張りあっても、唐物荘厳の世界を現出できるはずがない。

そこで東山御物に象徴される世界をやつして別の世界を作るのである。

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