はいみなさんこんにちは。
今日は、國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』の読書感想文を書こうと思います。
誤読があったらすみません汗
私は元々、キラキラインスタ女子でした。
「暇」さえあれば旅行をして、写真を撮ってインスタグラムにアップロードするという生活を繰り返していました。
そんな私ですが、今はインスタ女子を卒業し、あの頃のことを客観的に考えられるようになりました。
あの頃、なんであんなにしんどくも、華やかな生活を辞められなかったんだろう、って考えていた折、『暇と退屈の倫理学』に出会いました。
これ、9年前の本なのですが、全然古さを感じず、楽しく読めました。
それではいってみましょう。
まず、世の中には、有閑階級という階級に住む方々がいることは事実です。
私はちょくちょくツイッターで羨ましさをあらわにしている、あの、不労所得で働かずとも華やかな生活を可能にしている人々ですね。
私はずっと、金持ちは好きなだけ自分の時間とお金をインスタグラムに使えるから羨ましいと思ってたんですね。
でも、どうやら内情はちょっと違うみたいでした。
成り上がり資産家とか、成金ブルジョアジーとかは、やたらと「暇」を見せびらかそうとします。
メディアに出てくるキラキラプログラマーとか、キラキラブロガーとか、キラキラインスタグラマーとか、キラキラセレブとか、キラキラネットワークビジネスとか、キラキラ意識高い系ですね。
しかし、本物の、伝統ある、長い間有閑階級だった一族は、「暇」を生きる術を持っていました。
だからいちいち、自分たちがセレブだってことを誇示しないんですね。
品位ある閑暇を満喫しています。
っていうかそもそもインスタグラムやってない。
インスタグラムが世に放たれた時代は、暇を生きる術を知らないのに暇を与えられた一般人が大量発生した時代と重なるのですね。
だから、暇を埋め尽くそうと躍起になる一般人の心の隙に、巧妙にインスタグラムが入ってくる。
さて。本の中盤では、消費社会では贅沢ができず、消費が延々と繰り返されて際限が無いという話が出てきます。
そして消費は過剰になっていき、過剰になればなるほど、満足の欠如が強く感じられる、と説いています。
インスタグラムに話を移すと、「イイネ」という他者視点がこの消費社会にとって代わることが出来るように思います。
インスタ女子は、ガチガチに他者視点を内在化させているので、いつまでたっても贅沢には辿り着きません。
本当の贅沢とは、先述の本物の有閑階級の人々のように、他者視点を考えることなく、美味しいものを食べ、美しいものを見るということなのではないでしょうか。
私の弱さに、インスタ中毒はグイグイ介入していったような気がします。
執筆者:山本和華子

