永劫回帰の代替可能な推し活について

はいみなさんこんにちは。

今日は、三宅香帆さんの『推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない』という本にあやかって、

私も自分の元推しと推し活の総括をしようと思う。

「元」推し、そう、私は推し活を卒業したのである。

私が推しと出会ったのは、半年前。厳密にいうと7か月前。

推しは配信アプリのライバーで、私はリスナーだった。

推しは出会ったその日に私のツイッターアカウントを見てくれて、「変わってる、うん、変わってる」って言ってくれた。

たしかに私は変わってるので、その感想は妥当だと思ったし、ちゃんと私を見てくれているようで、嬉しかった。

その後もライバーとリスナーのやりとりの中で、私のことをほどよく見てくれて、ほどよく理解してくれて、向こうも私に対して自己開示もしてくれて、ほどよい距離感の、ほどよい信頼関係と、男女関係ではなく、人としての少なからずの愛情はあったと思う。

しかし、私はその推しとの関係を切ったのである。

配信アプリのアカウントも削除し、推しのツイッターアカウントもブロックした。

理由は一言で言えば、「私のことを代替可能な量産性なあまたのファンの一人だと思ってんなよ」という、ただの私のわがままによってである。

いや、彼女になりたいとかでは全くなかった。

むしろ男女関係とか心の底からどうでもよかった。

推しは私とはまったく異なる人柄で、陽キャで、人が根本的に好きな人たらしである。

だからこそ、推しから学びたいことはいくらでもあった。

ただのファンで居続けることだってどうでもよかった。

ただ、被りの女性たちがちょっとありえなかった。

なんだろう、私は一言で言うと、活字の女である。

そういう私を、被りの女性たちは、(たぶんそういう語彙力しか持ち合わせていないのか)

「ドメンヘラ」呼ばわりしていた。

そういう語彙力たちの世界にいたくないと思ったし、

推しのまわりの女たちと同類に落ちぶれるのも無いわって思って、

推しを見限ることにした。

推し活だから当たり前なんだけど、ライバーとファン、という関係性でしか繋がれなかったことも、窮屈に感じてしまった。

普通に人と人、として出会ってみたかった。そしたらもっと学べることも多かったように思う。

また、私が非代替可能な人物であるための付加価値を築けなかったこと(たとえば観光ガイドになるとか、自信に結びつくような何か)が、繋がり続ける意味がなくなった要因なのである。

もっと、価値のある私でいなければならなかったのである。

元推しには、本当に感謝している。100万回の、ありがとう。

そういうわけで、私の推し活は終わりにしようと思う。

三宅香帆さんの本はオススメなので、一読はあります。

追記

推しが私のことを、代替可能なあまたの量産性ファンの一人だって思われることは、本当はどうでもよかった。

本当は、私が心の奥底で、いつも、好きになった人、みんな、

「また好きになった」って、

私が相手を代替可能な好きになった人だと思ってしまうことがつらかった。

またこの人のことをどうでもよくなって、

また新しく好きな人ができて、

またその人もどうでもよくなって、

さらにまた新しく別の好きな人ができるって

そういう代替可能の繰り返しの人間関係しか私は築けないのかな

だとしたら私はもう誰とも出会いたくないな、

とか、思って、

元推しこそ、そういう永劫回帰の代替可能なうすっぺらい対人関係の地獄から

私を救ってくれるんじゃないかって

少しだけ期待してた

今でも、少し期待してるかもしれない。

私が観光ガイドになれたら、また再会したいと思う。

執筆者:山本和華子

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