石原莞爾はなぜ首相になれず、なぜ東條英機は首相になれたのか ~昭和の激動を生きた二人の対照的な軍人~

昭和の時代、日本の歴史の中でも特に激動の時期に、

石原莞爾と東條英機という二人の軍人が重要な役割を果たしました。

しかし、彼らの考え方や行動は大きく異なり、歴史に与えた影響も対照的です。

今回は、石原莞爾はなぜ首相になれず、なぜ東條英機は首相になれたのかについて見ていきましょう。

目次

石原莞爾(天才肌の個性派軍人)

石原莞爾(いしはらかんじ)は、関東軍の参謀として「満州事変」を主導した軍略家です。

思想家タイプで「世界最終戦争論」という独自の思想を持ち、非常に理想主義な軍人でした。

満州事変を計画・実行し、その成功で一時は大きな影響を持ちましたが、現実政治には不向きな面がありました。

石原は個性的すぎて協調性に欠ける人物でもあり、上官や政治家に反発することが多かったため、組織の中で孤立しがちでした。

ただし、部下からの支持は厚かったと言われています。

東條英機(上官の命令に従順な軍人)

東條英機(とうじょうひでき)は、第二次世界大戦中に日本の首相を務めた陸軍大将です。

戦後、東京裁判でA級戦犯として死刑判決を受けました。

官僚型軍人であり、従順かつ勤勉な人物でした。上官の命令に忠実に従うことで出世しました。

軍規を守ることを重視し、上層部からの信頼を得ていましたが、部下からの人気は薄かったと言われています。

軍内部の派閥争い

当時の日本軍には、陸軍の派閥闘争がありました。

皇道派・・・天皇中心の国家体制を重視し、クーデター的行動を好む派閥です。

統制派・・・軍部と政府が協調し、合法的に国家を統制することを目指す派閥です。

石原は皇道派に近い立場でしたが、最終的にはどちらの派閥からの疎まれるようになりました。

一方東條は、統制派の中枢にいました。

この派閥争いの結果、東條が軍の主流派に属することで首相の座を手に入れました。

東條は昭和天皇の信任を得ており、特に1941年の戦争開戦前後において、開戦に積極的でした。

石原莞爾と東條英機の間には、どのような考え方の違いがあったのか

【石原莞爾】

中国との戦争を避け、対立よりも協調を重視すべきだと考えていました。

彼は、満州を「日本と中国が協力して発展させる地域」と位置付け、アジア全体の平和と繁栄を目指していました。

アメリカとの戦争には、絶対反対の立場を取りました。

彼は、アメリカとの戦争を始めれば日本は敗北することを予見していました。

【東條英機】

東條は満州国の完全な日本支配を志向し、中国に対する強硬路線を推進しました。

アメリカとの戦争は避けられないと考え、開戦を推進しました。

彼が首相に就任した後は、軍部の意向に沿って戦争が拡大されました。

満州と関東軍における、両者の考え方の違い

関東軍とは、日本が満州に駐留させた、日本陸軍の最重要部隊です。

関東軍はもともと、南満州鉄道の警備を目的として設立されましたが、

次第に日本政府の意向を超えた独自の行動を取るようになり、暴走を始めました。

石原莞爾は関東軍参謀として、1931年に起きた満州事変の立案者です。

彼は、満州を日本の勢力圏にすることで、日本が資源を確保し、最終的にはアジアの平和を実現するという大戦略を描いていました。

したがって、満州事変は局地的な軍事行動に留めるべきだと考えていました。

関東軍が暴走し始めたことに対し、彼は不満を抱いていました。

東條英機は関東軍憲兵隊長に就任した後、関東軍参謀長に昇進しました。

この時期の東條は、満州国の支配を強化し、中國に対する強硬政策を推進していました。

そうすることで、満州国を日本の経済基盤とすることを考えていました。

したがって東條は、関東軍の暴力的な統治を支持していました。

調べてみた感想

石原莞爾の考えは、岡倉天心や安岡正篤の考えにも通じるものがあることを知り、とてもワクワクしました。

石原莞爾にかなり興味を持ったので、次回の記事でもゴリゴリ石原さんについて理解を深めていこうと思いました。

執筆者:山本和華子

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