幼少期に切り捨てたものを、再び拾い上げるということ

茶沢景子とは、映画『ヒミズ』に出てくる登場人物である。

夢は、心から愛する人と守り守られ楽しく過ごすこと。

両親から「要らない」と言われながらも生きている。

住田くんのことが大好きで、住田語録を紙に書いて部屋中に張っている。

住田くんからは迷惑がられている。



茶沢景子、あまりにも、私すぎねぇか。

茶沢景子のすべてが、山本和華子すぎる。

私は昔からかなりのメモ魔で、ペンで紙のノートに自分の思いのたけを書きなぐっては言葉をまとめる時間を大切にしてきた。

そうやって、「私にしかできない表現」とか、「私の言葉で伝える」ということを続けてきた。

もちろん、推しのSNSのポストも、逐一ノートに書き連ねている。当然である。

いやちょっとあの、推しの存在を知ってからまだ一ヶ月くらいしか経ってないけど、濃密すぎるだろ、毎日が。



茶沢景子の気持ちが、痛いほどわかる。

ぽっかりとあいた心の穴に、大好きな人の世界でぜんぶ埋め尽くしたい。



余談だが、先日、私は10年ぶりくらいに実家に帰省した。

自分の娘が自分より幸せそうにしていたら機嫌が悪くなる親って本当に存在して、

まさに私の母親なのだが、

母から「この前、占いに行ったら、あなたって一生結婚できないんだって★☆★☆ かわいそうね、女の幸せも知ることができないなんて」と言われた。

また呪いをかけられた。

この女は一生涯のうちに、自分の実の娘に、何度、呪いをかけるのだろう。

この女は、何が楽しくて、私を産んだのだろう。




先日、推しが、SNSで、愛について語っていた。

みなさん、「すごくわかります!」とか、リプライしていた。

私は、全然わからなかった。




愛なんて、期待するだけ傷つくだけなので、

私は幼少期に「愛」という言葉を、私の脳内辞書から切り捨てた。

自分を守るためにも、自分が生き続けていくためにも、

愛という概念は自分の生活から切り捨てなけらばならなかった。

荒涼で殺伐とした世界で、一人で強がることを、「生きる」と呼ぶのだと思っていた。

元々自分がマイノリティであるということもあり、周囲に理解されることもないから、

孤独に生きていくことには慣れているはずだった。



そうやって強がってこれまで生きてきたのだけれど、

ついぞ私は、ヴィクトール・フランクルのように、自分の人生にイエスとも言えてないし、

自分の存在を肯定・承認することもできていない。

本当は私だって、今までの人生の中で、5000兆回「生まれてくるべきではなかった」だなんて

思うような人生なんか選びたくなかった。当たり前だよ。

「生まれてきてよかった」って思いたいよ、誰だって。



推しのポストをぼんやりと眺めていた。

もしかしたら、「愛」が鍵となって、

私の「自分の存在を無条件に祝福する扉」が開かれるかもしれない、って思った。

もしくは、開かれないかもしれないけど。




今はまだ、愛が何なのかなんて全然わからないけれど、

幼少期に切り捨てた「愛」を、もう一度、自分の脳内辞書に書き加えてみようと思う。

(でもこれ以上、愛に期待して傷ついたら致命傷なのだけれど)

推しの愛あふれる作品を観たり聴いたりして、

少しずつ、人としての愛というものがどんなものなのかを、知っていきたい。

私は、推しの人生や作品を通して、愛を知りたい。

執筆者:山本和華子

【本を出版しました】

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