世阿弥著『風姿花伝』入門 ~歴史から哲学、魅力まで~ ~日本文化紹介シリーズ~

みなさんこんにちは。

今日は、世阿弥の記した『風姿花伝』にはどんなことが書かれているのか、その要約を書いていこうと思います。

世阿弥は、室町時代に、猿楽役者である観阿弥の子として生まれました。

観阿弥の没後、観阿弥の一座を継いだ世阿弥は、猿楽能に幽玄美を取り入れ、夢幻能を築き、芸をさらに発展させていきました。

当時世阿弥は、室町幕府第3代将軍である足利義満の庇護を受けていました。

しかし、義満の死後は冷遇を受け、室町幕府第6代将軍である足利義教によって、世阿弥は72歳のときに、佐渡に流されてしまいました。

その後、禅僧である一休宗純の尽力により、世阿弥の配流は解かれました。

そんな風に世阿弥は、波乱万丈な人生を送りました。

世阿弥の大成したとは、どんなものなのでしょうか。

能の源流にあるのは、奈良時代に中国から伝来した散楽だと言われています。

世阿弥は当時の様々な領域の芸能をコーディネートし、一種の総合芸術としての能を作り上げました。

それを次の世代に伝えていくために、『風姿花伝』は書かれました。

『風姿花伝』が書かれた背景には、こんな社会情勢がありました。

はもともと、神社や寺などの宗教と密接に結びつく形で発展していきました。

しかし世阿弥の時代には、能は足利家を中心とした武家へとパトロンが変化しました。

武士の美意識や、その周囲にいた文化人たちに、どうすれは能が受け入れられるかを、世阿弥は徹底的に考えました。

それでは本題である、『風姿花伝』の内容に迫っていきましょう。

そもそも、花といふに、万木千草において、四季折節に咲くものなれば、その時を得てめづらしきゆえに、もてあそぶなり。申楽(さるがく)も、人の心にめづらしきと知る所、すなはち面白き心なり。花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。

現代語訳“花といえば、四季折々の花がある。季節が変わって咲く花であるからこそ、その花は珍しいものとなり、人々も喜ぶ。能も同じである。人にとって珍しく新しいものであるからこそ、おもしろいと感じる。つまり、「花」と「おもしろい」と「めずらしさ」は同じことなのだ。”

世阿弥は、「珍しきが花」「新しきが花」を常に考えることが重要であると説きました。

また、世阿弥は、能という芸術に精進する道を、「年齢」という極めて具体的な指標との関係において語りました。

身体芸である能にとって、年齢とともに進む肉体的な変化と衰えをどう克服するかが、大きな課題でした。

世阿弥は『風姿花伝』において、年を取ったからといって能は終わりではないと記しました。

そのあとがあるのだ、老いてこそふさわしい芸というものがあるから、それに挑むべきだ。能は、一生をかけて完成するものである、と述べました。

世阿弥は、日本の芸能の特徴ともいえる「老いの美学」を、身体芸の世界で初めて確立した人物と言えるでしょう。

世阿弥の言葉に、「かるがると機を持ちて」があります。

現在、能は能楽堂など常設の舞台で演じられるのが一般的ですが、当時は、神社や寺の境内で演じたり、貴族たちの酒宴に招かれて座敷で演じたりすることもありました。

世阿弥は、その場の機にさらりと溶け込んで舞うのがよいと言っています。

世阿弥は、自分のリズムや感覚だけで何かをするのは愚かだと言いました。

「私は私のやり方でやる」と言い張ってはうまくいきません。

場というのは生き物です。色々な人がいて、色々なリズムがあります。その波動の中に自分が入り、それと一体になることによって初めて、その世界を自分のものにできるのです。

また世阿弥は『風姿花伝』において、他者と自己の関係については「離見の見(りけんのけん)」を唱えました。

“舞に、目前心後(もくぜんしんご)と云ふことあり。「目を前に見て、心を後(うしろ)に置け」となり。見所より見る所の風姿は、わが離見(りけん)なり。しかれば、わが眼(なまこ)の見る所は我見(がけん)なり。離見の見にはあらず。離見の見にて見る所は、すなはち見所同心(けんしょどうしん)の見(けん)なり。その時は、わが姿を見得(けんとく)するなり。”

観客席から見る自分の姿を常に意識しなさい。

我見ではなく離見で見た時に初めて、本当の自分の姿を見極めることができる、という意味です。

自分を後ろから引っ張っているものがあります。

自分は前に出ていくのだけれど、客席との間にはある関係の力が働いていて、自分が後ろに引っ張られたり、離れたりします。そういう全ての関係の中で、自分がそこに立っていることを意識しなさいということです。

”調子を機にこめて声を出すがゆへに、一調・二機・三声とは定るなり。”

これは、能役者は舞台で声を発するとき、心と体の中で音程を整え(一調)、タイミングを計り(二機)、目を閉じ、息を溜めてから声を出す(三声)とよい、という意味です。

漠然と話しかけても相手には伝わりません。相手を引き付けるトーンとタイミングを踏まえ、その上で初めて声を出しなさい、という教えです。

”これ、諸人の心を受けて声を出す、時節感当なり。”

能では、幕が上がり、役者が舞台に登場します。そして第一声を発するのを、観客が「今か、今か」と待ち受けます。

その期待が最高潮に達した瞬間に、声を出すのがよい。早くても遅くてもダメだ、というわけです。

役者の都合ではなく、観客の心を受けて声を出すという「時節感当」の教えです。

これは、私たち現代人にも当てはまります。交渉でも雑談でも、相手があることすべてに当てはまります。

場の雰囲気を察し、相手を意識し、相手が今何を感じているかを読みながら声を発しないと、相手の心に響きません。

執筆者:山本和華子

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