法華宗の歴史と「天文法華の乱」、「法華経」の教えの内容と特徴、日本美術との関連性について

はいみなさんこんにちは。

私の大好きな芸術家である本阿弥光悦や長谷川等伯はみなさん法華宗だったそうで、

「そうなんや!日本のアートって水墨画や枯山水など、禅宗が担っていると思っていたけれど、

それだけではなかったんだ!」ということを知り、法華宗について少し調べてみました。

目次

「法華経」の教えの内容と特徴

「法華経」の正式名称は「妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)」で、大乗仏教に属します。

法華宗で唱えられる「南無妙法蓮華経」には、すべての功徳が込められているとされています。

【法華経の根本思想】

1、一切衆生成仏(いっさいしゅじょうじょうぶつ)・・・すべての生きとし生けるものは、仏になれる可能性を持っている(僧侶でも庶民でも、善人でも罪人でも)。

2、仏の永遠性(常住の仏)・・・釈迦は、久遠の昔から存在する永遠の仏であり、人々を導くためにこの世に現れた。

3、方便(ほうべん)と真実・・・他の教えは人々を導くための仮の教え=方便であり、法華経こそが仏の真実の教えとされる。

4、一乗思想(いちじょうしそう)・・・声聞・縁覚・菩薩といった区別を超えて、すべての教えは成仏へ至る一つの乗り物(一乗)である。

法華宗の歴史の流れ

法華は、元々インドで編さんされた「法華経」の教えをもとに、中国で法華宗としてまとめていったものです。

日本で法華宗というのは日蓮が始めた日蓮宗を指します。

日蓮は鎌倉時代の僧侶で、当時、貴族たちが信奉していた浄土教に強く反発して、

法華経を根本とする宗教を興しました。

その後日本において法華宗は、「折伏(しゃくぶく)」という、他宗派と宗教論争をおこない打ち破っていくスタイルで布教していきました。

法華を支持したのは、経済力を蓄えた町衆たちでした。

禅は公家と武家の宗教でしたが、法華は町衆たちの心をつかみました。

応仁の乱で京都が壊滅状態となり、戦国の世に入っていくなかで、

町衆たちも自衛力をつける必要に迫られていました。

町衆が市民軍を組織し、徐々に武力を持つようになっていきました。

天文法華の乱

天文法華の乱は、日本の天台宗と法華宗のうちの一派、日蓮宗の間に起こった宗教戦争を指します。

この時代、蓮如をリーダーとする浄土真宗は、

「一向一揆」によって支配者に対して反抗運動を繰り返し、力をつけていきました。

一向衆とは、浄土真宗の急進派のことを言います。この一向衆の門徒たちが、各地で活躍していきます。

1532年、日蓮宗信徒は、一向一揆が京都の町を襲うと聞きつけ、

一向衆の拠点である京都にあった山科本願寺を焼き払いました。

その後、日蓮宗信徒は5年間、京都市内の自治権を得て、勢いを増していきました。

当時、大きな勢力をすでに持っていた天台宗からすると、

日蓮宗が力をつけていくことはあんまりおもしろくないわけです。

そういうわけで、1536年、天台宗と日蓮宗の間で宗教問答(ディベートのようなもの)が行われました。

そのとき、延暦寺の僧侶が日蓮宗の信徒に言い負かされてしまいました。

この宗教問答による勝敗が、武力衝突に発展していきました。

天文法華の乱では、京都にあった日蓮宗の21のお寺が焼き払われました。

そして日蓮宗信徒は、大阪の堺に落ちのびていきました。

法華と日本美術の関係

しかし、そこで法華衆の物語が終わるわけではありませんでした。

その後法華衆は、芸術や商業の道で、そのネットワークを発揮しています。

この時代を代表する文化の担い手のほとんどが、法華衆から生まれました。

狩野派、長谷川等伯、俵屋宗達、本阿弥光悦はみんな、法華でした。

桃山文化とは、芸術家の主人公たちが「禅」から「法華」へ移っていった時代でした。

執筆者:山本和華子

【参考文献】


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