前回、石原莞爾と東條英機の対比について見てきました。
今回は、石原莞爾がアジアの平和と統一を目指すというビジョンを掲げていましたが、
なぜその手段として満州事変という軍事侵攻を選択したのか、
そして彼は晩年に何を思い、何を考えていたのかについて深堀りしていこうと思います。
石原莞爾とはどういう人物なのか ~天才肌の個性派軍人~
石原莞爾(いしはらかんじ)は、関東軍の参謀として「満州事変」を主導した軍略家です。
思想家タイプで「世界最終戦争論」という独自の思想を持ち、非常に理想主義な軍人でした。
満州事変を計画・実行し、その成功で一時は大きな影響を持ちましたが、現実政治には不向きな面がありました。
石原は個性的すぎて協調性に欠ける人物でもあり、上官や政治家に反発することが多かったため、組織の中で孤立しがちでした。
ただし、部下からの支持は厚かったと言われています。
石原莞爾の思想「世界最終戦争論」
石原莞爾の思想の根幹には、「世界最終戦争論」がありました。
その内容としては、世界は、最終的に「西洋文明」対「東洋文明」の戦争に至るというものです。
その戦争に備えるため、日本はアジアのリーダーとして統一を進め、強固な基盤を築く必要がある。
そしてこの世界最終戦争に備えるために、まず満州を確保することが最優先だと彼は考えていました。
なぜ満州だったのか
石原莞爾は、満州を「日本の生命線」と見なしていました。
満州は石炭、鉄鉱石などの資源が豊富で、ロシアや中国、欧米列強の影響力が及ぶ地域であり地政学的に重要だと考えました。
石原莞爾は、満州を日本が平和的に開発し、アジアのモデルとなる国家を築けば、アジア全体を平和に導けると信じていました。
なぜ「満州事変」という軍事制圧の手段を選んだのか
石原莞爾には、「時間がない」という認識がありました。
当時、世界恐慌(1929年)によって国際社会は混乱し、欧米列強の植民地支配が続いていました。
石原莞爾は、満州が他国に奪われる前に、日本が主導権を確保する必要があると考えました。
軍事行動が最も効果的で、迅速な手段であると考えました。
彼は、満州の発展を通じて、アジアの他国にも平和と繁栄のビジョンを示しました。
石原莞爾は晩年、何を思い、何を考えていたのか
石原莞爾は晩年、故郷である山形県酒田市に戻り、農業を営みながら過ごしていました。
彼は戦後、一切の政治活動から身を引き、農業に専念しました。
石原莞爾は、若い頃から「世界最終戦争論」を唱えており、
人類が最終的な戦争を経験した後には世界的な平和と秩序が確立されると論じていました。
しかし、太平洋戦争の敗北によって、日本の軍国主義は完全に崩壊しました。
この現実は、彼の理想とは大きくかけ離れており、彼に深い失望を与えたと考えられています。
石原莞爾はその失望の中でも、日本は精神的な再生を果たすことが重要だと考えていました。
彼にとって農業を営むことは、人間の本来の在り方に立ち返る手段だったのではないかと考えられています。
晩年の石原は、思想的に孤立していました。
戦前の軍部とも決別し、戦後の日本の政治家たちとも距離を置きました。
彼が農業を営みながら過ごした時間は、深い内省の時期でもあったと考えられています。
彼は、自分の人生を振り返り、どこで理想を見誤ったのか、どのようにすれば人類は真の平和を実現できるのかを考え続けたのではないでしょうか。
執筆者:山本和華子
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