先日まで、「私は出家するんだ!」と意気込んでいましたが、
無事、悟ることが出来たので、出家せずに現実を生き続けることとなりました。
さて。
悟るまでの経緯について話そうと思います。
まず、母親が、私の第一志望校の入試代を出し渋り、私は入試を受けることさえできなかった。
入試を受ければ、受かっても落ちても、「挑戦できた」という達成感を得ることができますが、
それすら得られなかった。
子どもの進路とは往々にして、親の社会的視野の広さ(狭さ)とお金が影響するものですね。
まぁぶっちゃけていうと立命館大学で白川静先生の研究がしたかったわけですが、
結局私は、特待生として学費半額で、地方Fラン大で認知心理学を専攻することとなりました。
で、現状を認められないから友達を一人も作りませんでしたが、
ゼミや卒業論文は楽しく、また担当教官にも恵まれ、学問自体は楽しかったです。
いわゆるキラキラなキャンパスライフは送りませんでしたけどね。
結局のところ私の思考の癖は、
「ここではないどこかで何者かになりたい」っていう夢見がちお花畑なんですよね。
だから、仮に立命館に合格できたとしても、2回生ぐらいになると
「同志社受ければよかった」とか言い出す思考の癖があるんだろうなと気付きました。
また、私は、学歴こそが、この社会で生きていくための強い武器であると信じていました。
私は武器を持たずにこの先生きていくのか、、、しんどいな。
私はこのモヤモヤをどうにかしたくて、自己肯定感や自信のつけ方、自分を受け入れる方法、アドラー心理学などの本を、さんざ読みました。
それで、一冊の本に出会いました。
加藤諦三著『自分のうけいれ方』です。
加藤諦三さんのことは高校生の頃から知っていますが、
そのときはまだそこまで自分の心の動きを明確に言語化するということがよくわかっておらず、
「ふーん」で受け流していましたが、今なら加藤さんの言葉がよくわかる。
少し本文を引用しますね。
アイデンティティがあるということは、社会や人間関係のなかで自分の位置付けができているということである。
つまりこういうことです。
私の思考の癖「ここではないどこかで何者かになりたい」って、現在の自分を全否定しているのです。
自分を受け入れて肯定していくとは、他者と関わっていく社会のなかで、身の丈の自分に見合うふさわしい生活をする、ということです。
また、この本で加藤さんは、「自分は、親に愛された人々とか違う人生を生きるのだ」という決心をすることが重要と説きました。
まさにそう!
私は、親とは決別し、自立をすべきなのです。
親のせいで~と言っていることで、私は親に甘えたかったんだろうと思います。
でもあの親のことなので、もちろん私を承認してはくれない。
(というか、親とは言語の解像度や理解度、見ている世界観がまったくことなるので、そもそも会話が成立しない)
それで私はフラストレーションや虚無感が残る一方なのです。
漫然と「愛されたい」と連呼している場合ではない。
ついぞ私は愛を与えられなかったけれど、そういう宿命を認めて、社会に愛を与えていく決意をするのです。
執筆者:山本和華子