最近の私の死生観のアップデートのお話

はいみなさんこんにちは。

私は定期的に、「自分には生きる価値が無い」「自分には存在価値がない」という肥大妄想に苛まれるクセがあります。

何かのきっかけでその感情のスイッチが入るみたいな感じ。

まぁ、これは完治するものではないので、一生、この感情とはお付き合いしていくのかなと思います。

さて。

最近私は思うのですが、

人には人の数だけ、「自分が生きる理由」があっていいのかなと思いました。

その理由は、他者を言いくるめるためにあるわけではないし、

他者を軽蔑したり卑下したり、マウントを取ったりするためのものではないし、

他者の生きる理由と比較して「自分の生きる理由が優れている」などと優越感に浸るものでもない。

そして、自分の生きる理由は、他者に布教するためのものでもない。

私には私なりの「生きる哲学」があって、

私なりのユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、ゾロアスター教の死生観の解釈がある。

「それは違う」とか別に人に言われる筋合いは無い。



私は自分の世界の中に、ものすごく強い優生思想が内蔵されてしまっている。

もうそれは仕方ないわ。

どういう親や家族のもとで育つかというのは、自分で選ぶことはできない。

内蔵された優生思想を受け入れたうえで、それでも生きていくしかない。

優生思想の文脈からすると、私は根本的に存在価値が無いし、生きる価値も無い。

それでも、私は図々しく生きていくのである。

以前までの私は、それを克服しようとしたり、

「自分は生きるに値する存在なんだ」と証明するために、

自己価値を創出する(という名目の、実質キラキラなセレブごっこ)ことに命をかけていたりしていたけれど、

マジで意味ねぇな、って分かった。

自分に存在価値はない。それはもう、受け入れよう。

ただし、自分に存在価値は無くても、世の中が面白すぎる。

「世の中、おもろー」って思いながら一生を全うする人生も、アリなんだろうなと、

最近はそういう死生観も受け入れることにした。

執筆者:山本和華子

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