宇宙と私のフラクタル構造、梵我一如と、世界と私の関係性について

私が学生のとき、物理学者である蔵本由紀先生が書かれた『非線形科学』や、

生物学者である福岡伸一先生が書かれた『動的平衡』を読みながら、

宇宙って面白いなと思っていました。

人の数だけ「宇宙観」のようなものがあるのかなとも思っています。

最近では、ピアニストである角野隼斗さんの「Human Universe」という考え方が面白いなと思っていたところでした。

さて。

インドの古代宗教であるバラモン教には、「梵我一如」という考え方があります。

梵我一如とは、宇宙原理である「ブラフマン」と、個体原理である「アートマン」は同じものである、という考え方です。

このような考え方は、古代ギリシャにもあったみたい(マクロコスモスとミクロコスモスの対比)で、

これ実は、現代物理学でも同じようなことが言われております。

つまり、「宇宙と人は、フラクタル構造(自己相似性)を持っている」ということです。

私には推しがいるのですが、推しの極上イケメン顔を眺めながら、

「なんて美しいのだろう」といつも思っていて、

「推しの美しさは宇宙の美しさにそっくりだな」と思い、この考え方に辿り着きました。


明治時代の物理学者に寺田虎彦先生という方がいたのですが、

彼の随筆の一つに「茶わんの湯」という作品があります。

「茶わんの湯」は、現代の私たちにも大変読みやすい文体で書かれています。

その随筆の中には、「茶碗から湯気が立っていて、その湯気の形や流れが、宇宙のそれと相似している」というような内容のことが書かれていた記憶があります。

20世紀を代表する彫刻家に、イサム・ノグチがいます。

彼は、自身の作品を通して、「関係性の哲学」というものをずっと追い求めていました。

ラテン語で「生きる」とは、「人々の間にある」を意味します。

つまりローマ人たちは、人間の生きる本質とは「他の人々との関係を持っていること」だとみなしていたのです。

また、本来、interest(利益・関心)は、ラテン語をひもとくと「間にあること」という意味であり、

「所有」という意味ではありませんでした。

私は以前、色彩の世界史についての記事を書きました。

世界のあらゆる地域の美術史を紐解くと、アートの着色に使われてきた顔料というのは鉱物であり、

もとはと言えば地球の素材の一部なわけです。

人がアートを追い求めてきた歴史というのは、地球の素材をお借りしてきた歴史でもあるのです。

アートでさえも「人が地球と関係性を築く」というおこないであり、

本質的に、所有することすらできないわけです。



そういうわけで、人は何かを所有することに、本質的な価値は無いんだろうな、

というのが、暫定的な私の結論であります。

執筆者:山本和華子

【本を出版しました】




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