はいみなさんこんにちは。
世の中には、いわゆる「サブカル」という言葉ありますよね。
雑誌はゴシック・ロリータ系の『KERA!』を読んだり、そういうお洋服や個性的なファッションを実際に着たり、マンガを読んだり、ヴィレヴァンに通いつめたり、アニメのキャラクターのコスプレを着たり、ニコニコ動画に入り浸ったりとか、そういう人たちを、半ば見下し、半ば強烈に羨ましいと思っていた。
素直に、そういうものを「好き」って言いたかったし、そういうものに時間とお金を割きたかった。
素直にCoccoを聴いていたかったし、もっと素直に椎名林檎とかも聴いていたかった。でもそれをせずにここまで来てしまった。
私は、やっぱり、アッパークラスの男性と仲良くなりたいって思ってたから、ハイカルチャーなものばかり見ていた。
クラシック音楽、ジャズ、着物、茶道、読書、古典絵画、とかね。
楽しかったかと言われればそれなりに楽しかったけれど、それらを共有して楽しむということは、残念ながら出来なかった。
私は、あんまり行儀のよい人間じゃなかったから、茶道の世界で、千利休ばかりが崇拝されてるのも内心すごく疑問に思ってたし、お茶会で形式的な拝見ばかりするのも面白くないも思ってたんですよ。
お茶碗一つとっても、横のつながりで多様な会話が楽しめるはずなのに、「銘は~」とか、そんなセリフを言われるだけで、対話が生まれない。
亭主と半東の恥をかかせないためにそれ以上の質問はしちゃいけないという決まりになってるらしいんだけど、いや知らんなら知らんって言えばいいだけやんって、めっちゃ思ってた。
そういう、高尚な日本文化の、思考停止な部分が、めちゃくちゃ嫌いだった。
その反面、オタク文化の批評の盛り上がり方が、ものすごく眩しかった。
「私はそうは思わない。私はこう思う」「私はそこは知らないから教えて」って横のつながりで普通に言える土壌で、潔かった。
私はそういう意味で、高尚な文化の中に仲間入りもできないし、かといって今更サブカルやオタク文化に入り込もうとしても、何もわからない。
すごく孤独なんですよね。
私、アッパークラスの男性に、そんなに媚売りたかったの?という、一種の後悔すらある。
また、私は大学時代、中村うさぎや室井佑月にハマりました。
東京に行って、エッセイストになるのもいいなとは思ったんですけど、
やっぱり自分は着物が好きだから、京都に行って、着物を着て、日本文化に携わる、ちょっと高尚な人間になりたいって、思ってたんですよね。
でも、無理でしたw
やっぱり私はお行儀が悪くて、茶道のお茶会の拝見とか、もっとみんな活発に議論する場であればいいのにとか思ってたんですけど、あのような縦社会では、難しいんだなということを、ひしひしと感じました。
かといって、オタクにもなれず、サブカル女子にもなれなかった私は、「こじらせ女子」に滑り込んだようなな気持ちではいるが、こじらせ女子になり切るにも、失敗しているような気がする。
昨今、「こじらせ女子 ブログ」で検索すると、めちゃくちゃたくさんのブログを見つけることが出来るんですね。
で、読んでみても、私はあんまり共感しない。
正直、「こじらせ女子」の提唱者、雨宮まみさんの本ですら、共感できない。
それがすごく寂しく思えた。
私は貧困家庭で育ち、22歳までは透明な存在だった。
それで20代の頃は、愛が欲しい、愛が欲しい、愛が欲しいと、非常に愛を乞うていた。
にもかかわらず、本当の愛には恵まれなかった。
22歳のころまで、自分の家は普通だと思っていた。22歳を過ぎてから、どうやらおかしいことに気付いた。
気付いたころにはもう、透明な自分が出来上がっていた。
透明な自分を文化的に肉付けしていくために、何をしたらいいのか、全くわからかなかった。
とりあえずは、クラシック音楽を聴いたり、学術書を読んだり、日本文化に携わったりしていた。
いわゆる「こじらせ女子」って、好きなマンガを読んで、好きなファッションに身を包んだり、好きな音楽を聴いたりなど、「好き」なものだけで自分を肉付けできて、ある種恵まれたクラスタなんだと、理解するようになった。
色んなこじらせ女子ブログを読んで、「私これじゃない感」をずっと抱えてきて、「私、こじらせ女子クラスタのこじゃれたエッセイストにはなれないんだ」という寂しさを書かていた折、中村淳彦による『日本の貧困女子』を見つけ、読んでみた。
「私こっちじゃんw」っていう答えに辿り着いた。
恵まれたこじらせ女子が、羨ましい。
わがままを言えば、「こじらせ女子」になれる選択肢を、私も欲しかった。
自分が何者であるかの輪郭を整えるには、お金が必要。
日本は、アフリカの子どもたちより恵まれてるから文句言うな、という人は、そこを見落としている。
日本という文化的国家では、「自分が何者であるかの輪郭を整える事」は必須であり、それが金銭的問題により出来ないと、相対的に貧困に陥ってしまうんだと思う。
追記しておくと、私はあまりにも自分の輪郭ないしは肉付けが無く22歳まで生きてしまったものだから、その後の反動がひどかった。
インスタグラムで承認されたくてたまらなくて、表面的に華やかな生活を繰り返していた。
そういう人生にも、疲れた。
「何者でも無い」という存在は、許されない社会なのだろうか。
執筆者:山本和華子
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