私は元々、漢詩や東洋思想が好きで、それで一度、中国語のオンラインレッスンの体験講座に申し込みをしたことがあります。
しかし、その中国語の先生が、漢詩や東洋思想についてあまりいい顔をしなかったことがずっと疑問でした。
「え!自国の文化を誇りに思ったり、他国の人(日本人の私)が興味を持ってくれたら嬉しいものなんじゃないの?」と思っていたので、その先生の表情を見て、私は結構驚きました。
今回、色々調べて分かったのは、「自国の文化を尊重したり誇りに思うことは、決して当たり前ではない」ということでした。
今回は、はじめに現代の中国の方々が、自国の文化や歴史に対してどのような態度を持っているか、
そして、メインテーマである「中国は、共産主義と市場経済をどんな風に両立しているのか」について掘り下げていこうと思います。

現代の中国の人々が、漢詩や東洋思想など自国の歴史や文化に対してあまり関心を持っていないように見える原因・理由
1、文化大革命による伝統文化の破壊
1966年から1976年まで、中国では毛沢東主導により、文化大革命が行われました。
それにより、儒教、道教、仏教、文学、芸術、歴史的建造物などが徹底的に否定・破壊されました。
2、中国共産党の価値観
マルクス主義・毛沢東思想を中心とした教育を行っています。
3、改革開放政策
1980年代以降の改革開放政策によって、中国社会は急速に経済成長を遂げ、
現代の中国人の多くは成功、収入、学歴などを重視する実利的な価値観を持つようになります。
現代の中国人の多くが実利的な価値観を持つようになった背景には、鄧小平(とうしょうへい)という政治家の政策方針が関係しています。
つまり、文化大革命によって、文化も経済基盤もがゼロになって、
そこから、まずはごはんを食べるところから始める(農業)、それから経済復興(改革開放政策)が重要、
という風に、生活基盤をしっかり固めることを重視しているわけですね。

中国において、共産主義の政治と市場経済は、どのように両立してきたのか
両立のカラクリ・・・一党独裁 × 市場経済
経済はある程度自由に動かせても、政治体制だけは一切譲らない、というのが中国共産党の姿勢です。
国民を豊かにするためには、共産主義(計画経済)と市場経済の両者の良いところを合わせて取り入れるべき、と考えられたのです。
市場経済を取り入れつつ、最終的には国家がマクロベースでコントロールするという形ですね。
ここで、重要な用語である「改革開放政策」と「社会主義市場経済」についてもみていきましょう。
【改革開放政策】
文化大革命後の中国で、鄧小平主導のもと、1978年に始まった本格的な経済近代政策です。
対外貿易拡大、外資利用、先進技術の吸収を推進し、その対外開放の戦略的な地域として経済特区を設置しました。
国内外の企業を誘致するためにインフラの整備、税制面の優遇措置などの法的整備が進められました。
それに応じて外国資本が積極的に参入し、経済特区は急速に発展していきました。
【社会主義市場経済】
1992年、中国で採用された社会主義のもとで市場経済を導入する経済体制です。
1989年6月4日、第二次天安門事件により、鄧小平はアメリカをはじめとする諸外国から、人権抑圧を厳しく非難され、アメリカが経済制裁を加えるなど、中国経済は大きな危機に陥りました。
このとき鄧小平は、この危機を乗り越えるには、さらに一段と推進することによって豊かさを実現していくしかないと決心しました。
鄧小平はこのときに、こう発言しています(南巡講話)。
「計画経済と社会主義はイコールじゃないし、資本主義にも計画はある。
市場経済と資本主義もイコールじゃない。社会主義にだって市場はある。
最終的にみんなが豊かになることが重要なんじゃないのか」
鄧小平は、イデオロギー(主義・手段)よりも、成果や結果どうなるかの方を重視したのですね。
さてさてさて。
ここで私、思ったんですよ。
天安門事件は決して許されることではありませんが、鄧小平って、かなりの努力家だったのでは?と。
だってあの文化大革命のあとの中国を復興したんですよ。
そういうわけで、鄧小平についても少し調べてみました。

鄧小平について
鄧小平は客家の出身で、小地主階級の家庭に生まれます。
16歳でフランスに留学します。
「フランス留学」といっても、私たちがイメージしがちな「優雅な貴族気分のキラキラ留学」ではありません。
鄧小平はフランスにおいて、「勤工検学(働きながら学ぶ)」を続けていた苦学生でした。
フランス社会を目の当たりにした彼は、中国の貧しさ、後進性を根本から変えねばならないという思いを強くします。
そういうわけで鄧小平は、政治家の道を歩むことになったのです。
執筆者:山本和華子

