はいみなさんこんにちは。
昨今、世界中で、アドラー論や前野隆司さんの研究などをはじめとして、
「幸福」に焦点をあてた価値観や生きざまが注目されてきたが、
「幸せになること」というのは、人類の欲望の「過程」であり、おそらくは最終目標ではないんじゃないか、
という話をしました。

そして私は、常々、実家極太の娘が、
親のスネで世界旅行したり、留学したりすることで、
親のスネによっていくらでも自己価値にゲタを履くことができることが羨ましいという話もしました。

しかし、最近はちょっと違うのかもなーという考えに辿り着きました。
最新の私の暫定的な答えとして、
「どんなに腐敗した世の中であっても、自分なりに美しい人生を選択し続けること」が、
人としての本質的な価値なのかなと思っています。
日本は、もはや法治国家ですらないかもしれない、というお話を記事にしました。

親のスネという賄賂で何でも解決してもらえる人。
また、親のスネで好きな人と強引に恋愛・結婚できる人もいる。
でもそれって恋愛じゃなくて風俗じゃん、とも思うけれど。
税金で酒池肉林、業の深い生きざまを繰り返す裏金議員もいる。
日本ってさ、調べれば調べるほど、資本主義も司法界も内閣も何もかもが腐敗してるし、
すべてが機能不全に陥っている。
そういった中でも、実家極太人間は、「資格や経験という武器を取得する」ことで生存していける可能性はある。
でも、「旧帝早慶上智卒」という武器を所有したとしてもなお、自殺してしまう人も多い。
人は、何かを所有をしたとしても生存し続けられる保証はないのかなと気付いた。
「金持ちになる」「幸せになる」「自分の欲望を叶える」「所有する」は、
実家極太娘もできるし、裏金議員もできる。
でも、
「どんなに腐敗した世の中であっても、自分なりに美しい人生を選択し続けること」って、
それに気付いた人にしかできない生き方なんだと思う。
それを中国古典文学では、『菜根譚』という書物で、
「勢利紛華、不者爲潔、之而不染者爲尤潔。智械巧、不知者爲高、知之而不用者爲尤高。」
という言葉で表現しています。

それは、仏教の教えにもあって、
「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という言葉で表現しています。
泥水のような日本社会でも、泥に染まらず、
蓮が己の美しい花を咲かせるように、
自分なりに「この生き方が美しい」と思う道を選択していく。
「美しい生き方」というのは、
一流ブランド大学を卒業することでもなく、
大金持ちになることでもなく、
豪奢な生活をすることでもなく、
生き延びるための武器を装備していくことでもない。
人それぞれ、美しいと思う生き方は異なるとは思うけれど、
私の場合は、「身の丈に生きる」かもしれませんね。
それは、渋沢栄一のいうところの「蟹穴主義」のようなものかもしれません。
執筆者:山本和華子

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