障害名や病名によって、窮屈な社会が完成されつつあるということ ~人が言葉を獲得する功罪を、哲学者ミシェル・フーコーの思想から解き明かしてみた~

はいみなさんこんにちは。

このテーマについて、以前より書きたいと思いながらも、「まとまった時間が取れたら書こう」と思っていて、

でもまとまった時間なんか全然取れねぇな、ずっと書けねぇな、という期間が長くあり、

まとまった時間なんか永遠に来ないことを自覚し、書いちゃえと思い、書く次第であります。

目次

人が「言葉」を獲得したことの功罪について

私は以前、人が言葉を獲得したことの功罪について、芸術の視点からサラッと言及したことがあります。

今回はそのことについて、少し深掘りしていこうと思います。

「言葉」とは本来、混沌とした世界に輪郭をつけていくものであり、それは恣意的なもので、

ものごとを便利にしたり分かりやすくしたりして、世界を「分解」していくものです。

言葉は人を豊かにしますが、使い方によってはものすごく窮屈な社会を作ってしまう危険性もあります。

障害名や病名は何のために存在するのか

障害名や病名、性別、年齢など、言葉は便利に色んなことを簡単にセグメントできてしまいます。

精神科医Youtuberが「ADHDの特徴10選」とかいうようなショート動画を投稿して謎の啓蒙をしたり、

「あいつはアスペだから」と噂したりして、

分かったような気になったり、それ以上知ろうとしなくなったりすることも起きてきます。

本来、障害名や病名の診断というのは、医療サービスや福祉サービスを受けるための専門的な診断であり、

医師免許を持っていない人が、偏見や差別を助長したり他者をマウンティングしたりするためのものではありません。

余談ですが、歴史学者の網野善彦先生が主張していたように、

中世日本において特別職能集団(士農工商以外)の人々は、本当はとても豊かな生活をしていました。

(本当は彼らも、ヨーロッパのユダヤのように、うまいことやれば世界の大富豪になれた道もあったのではないかと私は仮説を立てています)

しかし明治時代以降、明治政府によって意図的に彼らは被差別の民というスティグマをおされ、

彼らは自分たちの誇りある手仕事の歴史を忘却させられてしまったのです(諸説あります)。

要するに、言葉でものごとの概念を規定するというのは、弊害を生む場合もあるという危険性を孕むのです。

哲学者ミシェル・フーコーの思想の要約

ここで、私の言説をかみ砕いて解説するために、フランス人哲学者ミシェル・フーコーの思想をわかりやすく紐解いていきたいと思います。

フーコーは、「知識」と「権力」は密接に関連していると主張しました。

つまり、知識は、純粋に真理を追究するものではなく、何らかの権力構造を生み出す装置となるのです。

また、「規律化」とは、人々をルールに従わせることを指します。

私たちが生活する現代社会は、常に何者かに監視され、評価される環境となっています。

SNSは良い例ですよね。みなさん、自分が優越感に浸れるための餌食を血眼になって探している。

ある意味ですごい時代になりましたね。

さらにフーコーは、「正常」と「異常」という概念にも言及しました。

ある対象が正常なのか異常なのかは、社会の構造によって相対的に規定されると説きました。

それらは普遍的なものではなく、それぞれの社会や時代によって変化する。

これは、私が以前、文化人類学の記事で、経済システムは社会や時代、地域によって異なる、と書いた内容と似ていますね。

その社会の基準で「異常」とされた人々は、正常化(矯正ないしは治療)されるか、監視(投獄)の対象となってしまいます。

豊かな人生、豊かな社会にしていくために

「アイツは障害者だから」とか、「アイツは犯罪者だから」とか、

弁護士資格の持っていない人が、なぜ自分には人を裁く権利があると思うのでしょうか?

医師免許の持っていない人が、なぜ自分には人を診断する権利があると思うのでしょうか?



自閉症スペクトラムの特性がグラデーションであると言われるように、

すべての物事にはグラデーションがあり、そしてその「間」には無数の豊かさが存在するのです。

ゆえに、言葉で規定されて「はい終わり」ではないのです。



人の人生や生きざまというのは本来広くて豊かなもので、それは他者によって侵害されるべきではありません。

自分の人生をより広くて自由で豊かにしていくために、また他者からの侵害から守るための一つの策として、

世の中について学び続け、考え続けることが大切なのではないか、と私は考えています。

執筆者:山本和華子


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