『気狂いピエロ』は、1965年に公開された、フランスの映画です。
監督は、ジャン=リュック・ゴダール
出演 ジャン=ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナほか
パリで金持ちの妻との生活に辟易している男、フェルディナン。
偶然ベビーシッターにやってきたかつての恋人、マリアンヌ。
彼女を家に送り一夜を共にするも、翌朝知らない男の死体が転がっていた。
事情の分からぬまま、彼女の兄がいるという南仏に向かう。
この死体を巡ってのトラブルを避けようと、2人は逃亡劇を始める・・・。
主人公のフェルディナンは、ジャン=ポール・ベルモンドが演じました。
ベルモンドは、フランス映画界を代表する大物俳優です。
マリアンヌは、ゴダールと公私にわたるパートナーとして駆け抜けたアンナ・カリーナが演じました。
ヌーヴェルヴァーグとは
この作品は、フランスのヌーヴェル・ヴァーグの代表的映画として知られています。
ヌーヴェルヴァーグとは、1950年代末に起こったフランス映画の革命のことです。
フランス語で「新しい波」を意味します。
ヌーヴェル・ヴァーグの監督は、元々は映画評論家たちでした。
彼らは助監督などの下積み経験を経ておらず、自分が展開していた映画論にしたがって映画を撮り始めました。
それまでの映画は、スタジオ内のセットで照明をあてながら撮影するのが普通でした。
しかし、ヌーヴェル・ヴァーグの時代では、フィルムの質の向上によりロケ撮影が自由に行えるようになりました。
ゴダール監督の魅力
ゴダール作品は、その視覚的な美しさで知られています。
色彩の使い方、構図、照明など、彼の作品は視覚的な魅力にあふれています。
『気狂いピエロ』や『アルファヴィル』などは、その独特なビジュアルスタイルで特に評価されています。
またゴダールは、常に映画製作において実験的なアプローチを試みました。
彼は新しい技術や方法を試し続け、映画というメディアの可能性を追求しました。
いざ、鑑賞
フェルディナンとベビーシッターのマリアンヌが再会して5年。
再会したてのシーン、マリアンヌはよそよそしかったが、帰り道、フェルディナンの車で送ってもらっているときに、すでにフェルディナンに対して「ピエロ」呼ばわりしています。
急激な距離感の近づきを物語っています。
翌日、男性の死体があっても、何事もないかのように二人は会話し、マリアンヌにいたっては陽気に歌い始めます。
そこで私たち鑑賞者は、大きな違和感を覚えるのです。
二人は車で南仏に向かうのですが、そこでナレーションが、
「一方通行の道路でパリを出た」と言います。
つまり、二度と戻ってくることのない道を進むことを意味しています。
私がこの作品を観たのは2回目ですが、割と暴力的な演出が多いことに改めて気付かされます。
これは、悪に手を染めなければ二人で居続けることが出来ないことを示唆しているのかなと思いました。
さらに言えば、二人が一緒になったのが間違いだったことも示唆しているのかもしれません。
そして、なんとも不自然で不思議な演出が多いのも特徴として表れていました。
これがゴダールの美学、あるいはフランス映画の美学なのでしょうか。
割と暴力的なシーンが多いのですが、盗んだ車さえも燃やして何ももたずに二人でただ道を進み続けるシーンが、唯一幸せそうに見えるのでした。
あのままであれば幸せは続いていただろうに、二人はまた新しい車を盗みます。
なぜこんなにも執拗に刺激を求めるのでしょうか。
逆に言えば、刹那でその場限りの刺激を求め続ける二人の姿に、潔ささえ覚えてしまいます。
さて。
各シーンで、フェルディナンは本を音読するシーン、そして日記を書くシーンが現れます。
これは、何を意味しているのでしょうか?
おそらく、ペダンティックで孤高、斜に構えて、社会の外側で生きていることを表現しているのではないでしょうか。
また、マリアンヌがこう発言するシーンがあります。
「本もレコードもお金もいらない。生きたいだけ。フェルディナンにはわからない、生きることが」
マリアンヌの生きざまが物語っている象徴的なシーンです。
自由奔放な物語に見えて、本当は、最初からわかり合えなかったのです。
でも、男と女って、案外そういうものなのかもしれませんね。
執筆者:山本和華子
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