芥川賞作品を読むのは、中学生のとき以来だ。
私が中学生のとき、綿矢りささんと金原ひとみさんが芥川賞を受賞し、世間を騒がせていた。
綿矢りささんの『蹴りたい背中』を読んだ私は、厚かましくも、彼女に嫉妬した。
こんなに細やかな表現を、言葉で綴ることができるのか・・・。
私の推しが「金原ひとみさんのファンなんだよね」と言ってたとしても「ふーん」で終わるけど、
「綿矢りささんのファンなんだよね」って言ってたら、「どうぞ!彼女のもとへ行けばいいじゃん!!!」って言うと思う。
衝動によってその日一日を生き延びる私
今日はどうしても、市川沙央さんの小説を鏡として、
今の自分の心の内を反射させて言葉にしたい衝動に駆られた。
ここ最近の私は持病のメンヘラの悪化により、毎日毎日死にたい死にたいとぼやいているくせに、
頭にパッと浮かんでくる衝動によって、図らずも生き延びてしまう。
「あれがしたい」「これがしたい」というような衝動によって私は、
一日一日を生き延び続けているような気がしている。
大衆や量産性女子になれない私たち
我々、大衆側や量産型になれない者は、
そういう人々に近付けば自動的に幸せになることができるのだろうか。
私は違うと思う。
我々マイノリティ側の女たちは、
マイノリティ側なりの幸せの築き方があると思うし、
マイノリティゆえの他者への愛し方があるんじゃないかと思っている。
私が「この私」でなかったら手に入れたかった人生
「生まれ変わったら高級娼婦になりたい」
本書にはそう書かれていた。
私は、生まれ変わったら何になりたいんだろう。
たぶん、職業や肩書というような、「何者かになる」のはどうでもよくて、
「この人に愛されたい」と思う人に、代替不可能な形で愛されてみたい、とは強く思う。
また本書には、「中絶がしてみたい」「普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です」「そういう人生の真似事でいい」とも書かれていた。
己の身体を介して健常者のままごとをすることが我々の幸せなのか、違うだろう。
私たちには私たちなりの、幸せがきっとあるはずだと思っている。
それは、量産型幸福を諦めろと言っているのではない。
私たちだからこそ感じられる恍惚というようなものが、あるんじゃないのか、
私はそう思っている。
学歴や肩書という装飾
推しの存在を知って私は、
肩書がなくてもこんなに輝いた人生を送っている人がいるんだ、と驚いた。
私はつい最近まで、
「ハーバード大学を首席で卒業してさえすれば、私は誰かから愛されていたはずなのに」
という、半ば嘲笑にも似たワードをよく使用していた。
私は長年学歴コンプレックスがあり、
20代の頃は旧帝大卒もしくは関関同立(江戸の地でいうところのGMARCHのような大学)の男性としか
ワンナイトしないと決めていた。
しかし、つい最近になって、
初めて学歴とは無関係の人の魅力というものを知り、「推し変」した。
推しの存在によって、こんなにも簡単に女という生き物は、コンプレックスを捨ててしまえるものなのか。
人は、生きる時間を重ねていくと共に、
その人の原石が磨かれ、その人本来の魅力が輝いていくようになる。
本質的に魅力的な人は、学歴や肩書という装飾がなくても、輝く。
マイノリティとして生き続ける理由(私の場合)
私が自殺をせずに執念深く今日まで生きているのは、
私の感性でこの世界を描写してみせる、という強い思いがあるから。
それは、私の生きることや存在の理由の根源のようなものである。
もし描写できないとしたら、
なぜ私がマイノリティとしてこんなに苦しみもがきながら、生きる必要があるのかと思う。
マイノリティだからこそ、表現できる世界の解釈というようなものを形にしてみたい。
「健常者は、呑気でいい。」
「健常者は、呑気でいい。」
本書には、そう書かれていた。
私も、何度そう、思ったことか。
マイノリティの私たちは呑気で生きることすらままならないし、
呼吸することだって、そもそも違うのだから、
だからこそ、そこから感じる心の痛みとか、そういうものを言葉にして作品にして、
私たちの生きる武器にしていくんじゃないのか。
私たち作家・表現者というのは、そういう宿命にあるんじゃないのか。
自称繊細さん民族による、禍々しいポストたち
本書には、軟弱を気取るキラキラ系文化女子に対して辟易している、と書かれている。
わかる、めっちゃわかるよ。
私だって、自称繊細さん民族による禍々しいポストたちに辟易してるよ。
彼ら・彼女らは、そういう量産性御朱印ワードで自分を守りたいんでしょうね。
女の性欲
本書にはかなりのページ数にわたって、男女の性の話が書かれている。
私はそういうこと、推しとしたいとは思わない。
どちらかというと、推しとは南インドのドラヴィダ民族の建築を観に行ったりとか、
ペルシャの工房でガラス吹き体験とかしてみたい。
あとは、一緒に映画『イミテーション・ゲーム』を観て一緒に号泣したい。
そうじゃなきゃ、彼を推しになんてしないよ。
大好きな人と一緒に世界を感じて、人間を感じて、泣いたり笑ったりしてみたい。
竿と穴さえあればできるような量産性の欲望、私は興味ない。
私と市川沙央さんに共通しているもの
本書の主人公は、自分が、男性が発情する存在になりたかった。
私は、自分が、男性が愛する存在になりたかった。
根本的には、同じなんだと思う。
執筆者:山本和華子



