日本人が実は不寛容で他人に冷酷なのは、人権意識が低いからなのではないか

はいみなさんこんにちは。

日本ではよく「和を尊ぶ」「思いやりを大切にする」「みんな仲良く」と聞きますが、

実際のところ、「自分の集団とは違う人」や「自分とは違う人」に対しては、

とても不寛容で、冷酷で残酷な一面があります。

「自分がいる集団や、自分と似た人に対してのみ、和を尊び、思いやりの精神がある」という、

限定的な優しさというわけなのですね。

その日本人特有の不寛容さや冷酷さ、残酷さは、

日本人の人権意識の低さに原因があるのではないかと仮定し、今回、私は調べてみることにしました。

目次

国際基準としての「人権」とはどのようなものか

人権とは本来、すべての人間が生まれながらに持っているもので、

人権の保障は政府が実現する義務を負っています。

国連において世界人権宣言の内容の基礎として条約としたものが、国際人権規約です。

その国際人権規約は1976年に発効され、日本は1979年に批准しました。

国際人権規約の内容としては、

●市民的政治権利に関する国際規約(自由権規約)

●人種差別撤廃条約

●女性差別撤廃条約

●拷問禁止条約

●子どもの権利条約

●障害者権利条約

などがあります。

人権は、思いやりや自己責任論とは異なる

先ほども述べたように、本来、人権の保障は政府の義務です。

しかし、日本の法律では、人権教育とは「人権尊重の精神の涵養(かんよう、少しずつ養い育てること)を目的とする教育活動」と定義しており、個人が優しさや思いやりを育むことを目的としています。

この法律では、人権について思いやりが強調され、「政府の義務」という視点が抜け落ちています。

そのため、何か問題が起こっても、それは思いやりの範疇のお話に過ぎないと、「自己責任」として片付けられてしまうのです。

人は、自分の仲間や集団には思いやりを持つことはさほど難しくはないでしょう。

しかし、自分とは異質な集団や人には、差別的な感情が生まれやすい。

それは日本人だけではありません。世界中の人はみな、多かれ少なかれ、そういう感情は生まれやすいです。

だからこそ、人権問題の改善は、仲間への思いやりだけでは不十分なのです。

日本人は「人権」という言葉に苦手意識がある

そもそも日本人には、「人権」という言葉に対し、苦手意識がある傾向があります。

日本では人権を誤解しているどころか、積極的に否定する空気感も強いです。

「波風立てない」「事なかれ主義」「みんな仲良く」を重視する文化においては、

「人権」について発言する人に対し、「わがままを言う人」「めんどくさい人」というレッテルが貼られることも多いです。

確かに、世界史を紐解けば、人権には闘争的な側面があります。

人権が侵害されている場合、権力と闘って獲得していくという歴史がありましたが、

これをことさらに日本人は嫌がります。

欧州や米国では、人権とは「大切なことである」という認識がありますが、

日本では「なんか胡散臭い、めんどくさいやつ」のイメージが強いです。

確かに、西ヨーロッパと東アジアでは、育まれてきた文化が違うため、

「人権」という言葉に対するイメージが異なるのも自然なこととは思います。

しかし、日本において、「上の人間の言うことをただ聞いて、自分の住んでいる村集団の和を尊ぶことが良し」とされる文化というのは、たかだか江戸時代にできた文化に過ぎません。

江戸時代、徳川家が儒教の教えを歪めて市民を統制したことを、「本当の昔から存在する日本文化だ」と認識するのは、それは違うかなと思います。

本来の日本人の価値観や生活文化は、もっと多様で豊かでした。

本来の「和を以て貴しとなす」の意味とは?

さぁここで、歴女である私の本領発揮の場面が来ました(笑)

日本の「和を尊ぶ」のが良しとされる文化の起源は、どこにあるのでしょうか。

聖徳太子が十七条憲法においてその言葉を用いたのが始まりとされていますが、

実はもっと古くにその起源があります。

はい、孔子の『論語』です。

現代の日本人では儒教というと、アレルギーを持つ方も多く、

実際に私も最初は、めちゃくちゃ嫌いでした(笑)

でも、本質を紐解けば、現代の日本に存在する儒教の教えというのは、

いかに歪められて押し付けられているか、ということがよくわかります。

『論語』には、このような言葉が書かれてあります。

礼の用は和を貴しと為す。先王の道も斯れを美と為す、小大これに由るも行われざる所あり。

和を知りて和すれども礼を以てこれを節せざれば、亦行なわるべからず。

【現代語訳】「礼」の働きとして「調子」がある。昔の王も調和をもって国を治めることに長けていました。

しかし大事も小事も調和だけに則って行おうとすれば、なかなかうまくいかないものです。

「礼」を用いて調和をはかるようにした方がいいでしょう。




本来の「和」とは、意見の違いを認め合いながら、合意点を見出す「対話的な和」でした。

ところが近代以降、「和」は次第に「同調すること」へとすり替えられてしまいました。

日本政府は、国民の人権保障という義務を果たす気が無い

国連では加盟国を対象に、あらゆる人権について5年ごとに審査を行っています(普遍的定期的審査)

2023年の日本の第4回普遍的定期的審査では、女性差別の解消、国家人権機関の設置、個人通報制度の容認などの勧告が出ました。

個人通報制度とは、人権侵害を受けた個人が、国内で救済を受けられない場合、国連に救済を訴え出ることができる制度のことです。

しかし、日本政府は国連から勧告が出るたびに「法的拘束力がない」として、一蹴してきました。

日本が毎年国連にお金を出している金額(拠出金)は、世界ランキング第3位であるにも関わらず、

国連の勧告を聞き入れていません。何のための拠出金なのでしょうね。

今回、調べてみて思ったこと

今回、人権について調べてみて思ったこととしては、

日本人にそもそも「自分に人権がある」ことを自覚していないゆえに、

「他人の人権を理解しにくい」、という構造があるのかなと思いました。

日本は東アジア独自の儒教文化圏の国なので、家族や村社会を大切にしてきました。

そこには良い面もあれば、悪い面もありました。

他の村や藩のことは、別にどうでもいい。

脱藩した武士がこの先どうなっても、別にどうでもいい。

そういう、無自覚の冷酷さや残酷さも同時に育まれたのかなと思いました。

また、日本社会の同調圧力に従順な人々は、自分の幸せの物差しを自分で構築しないで、

他人の幸せのパッケージをそのままインストールするだけの人が多いなという印象も持ちました。

幸せの物差しは、人それぞれ違っていてもよくないか?と私は思います。

画一的な、量産型の幸福パッケージを見せびらかして、承認欲求や自己顕示欲を競い合うマウンティング戦争地獄に生きていても、面白くないだろう。

現代の日本人は拝金教の亡者が多いので、日本政府が国連からの勧告を無視し続けていること自体、知らない。

だから日本政府もずっと無視し続けることが出来る。

もっと、お金の稼ぎ方以外に、色んなことに興味範囲を広げればもっと人生面白いのにね、と思いました。

執筆者:山本和華子

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