百人一首の成り立ちと有名な和歌の解説 ~日本文化紹介シリーズ~

はいみなさんこんにちは。

今日は、百人一首について、記事を書いていきますね。

百人一首は、鎌倉時代初期、藤原定家(ていか)が古今の男女100人の和歌を、1首ずつ選んでまとめた秀歌撰です。

歌の出典は、以下の10の勅撰和歌集です。

古今集、後撰集、拾遺集、後拾遺集、金葉集、詞歌集、千載集、新古今集、新勅撰集、続後撰集。

なお、日本最古の歌集「万葉集」を勅撰集とみなしていた時代もありましたが、現在では「古今集」を最初の勅撰集と見るのが通常となりました。

目次

柿本人麿

あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜(よ)をひとりかも寝む

これは、恋人と離れなばなれに寝る夜を嘆いた歌です。

山鳥は夜になるとメスとオスは谷を隔てて別々に寝るとされたことから、独り寝を象徴する鳥として古来より恋の歌によく詠まれました。

柿本人麿は、「万葉集」を代表する歌人ですが、詳しい経歴はよくわかっていません。

小野小町

花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に

美女が、流れゆく年月を嘆く情景を描いた作品です。

長雨のために花の美しさを十分に鑑賞できなかったという恨みが表の文脈です。

そこにもう一つの文脈、私がぼんやりと日々を過ごしていくことへの後悔が重ねられています。

小野小町は、六歌仙、三十六歌仙の一人です。小野氏の娘で、仁明天皇、文徳天皇に仕えていました。

蝉丸

これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関

これだよ、これ。これがあの、旅立つ人も旅から帰る人も、そして知っている人も知らない人も、ここで別れてはまたここで会う、逢坂の関だよ。

当時、逢坂の関は、多くの旅人が行き交う土地でした。

蝉丸は、逢坂の関のほとりに住む、隠者だったと伝えられています。

また、盲目の琵琶の名手であったとも伝えられていますが、実態は不明の伝説的人物です。

小野篁

わたのはら八十島(やそしま)かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人(あま)の釣り舟

大海原の多くの島々を目指して漕ぎ出していったと、都に残してきた人に告げてくれ、漁師の釣り舟よ。

この歌は、篁が隠岐島に流されるにあたり、海上に浮かぶ漁師の釣り舟に呼びかけた歌です。

陸を離れる絶望感が、流されゆくものの絶唱として胸に響きます。

小野篁は、武芸、漢詩、和歌に優れ、漢学者でもありました。

伊勢

難波潟(なにはがた)短き葦のふしの間も逢はでこの世の過ぐしてよとや

難波潟に生えている葦の、節と節の短さのように、ほんの短い間でも会えずに、この世を過ごせよとおっしゃるのですか

この歌は、心変わりしてつれない恋人からとどいた 手紙への返答歌でした。

葦の節と節の間という物理的な短さで、時間の短さを暗喩し、会えない恨みを男性にぶつける歌です。

また、水に濡れた葦は、忘れられた女の恨み、絶望の象徴でもあります。

伊勢は三十六歌仙の一人です。恋多き女性として有名で、歌人の中務(なかつかさ)の母です。

執筆者:山本和華子

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