ローマ・ギリシャ史とカルタゴの世界遺産

ヨーロッパは、温暖な気候と高い生産力を持ち、古くから人口密集地域であることが特徴です。

現在のヨーロッパ文化のルーツはギリシャ文明にあります。

古代ギリシャ人は、小高い山の周辺に集まって暮らしていました。

ポリスと呼ばれる都市国家の中心となった山を、アクロポリス(城山)と言いました。

平野の少ないギリシャでは、人口が増えると土地が不足します。

そこでギリシャ人は、地中海の海上交易を活発に行い、各地に植民市を建設しました。

西でポリス社会が発展していた頃、東ではアケメネス朝ペルシャが一大帝国を築いていました。

このペルシャ帝国が、ギリシャ世界におそいかかった戦争を、ペルシャ戦争と言います。

そしてその戦争ではギリシャ世界が勝利します。

ギリシャ世界の北には、マケドニアという国家がありました。

そのマケドニアの王、フィリッポス2世は、ギリシャのポリスを「コリントス同盟」という形で統合し、支配下におさめました。

フィリッポス2世の子が、アレクサンドロスです。

アレクサンドロスは、東方のアケメネス朝ペルシャ帝国を倒すため、東方遠征に出発します。

その後アレクサンドロスは32歳の若さで死去し、マケドニアは、ティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトという3か国に分裂してしまいました。

古代ギリシャとともに、ヨーロッパ文化の源流になったのが、ローマ帝国です。

ローマの前半は、王や皇帝を持たない「共和政」という時代でした。

軍事面でローマは順調に強大化し、イタリア半島を統一します。

この段階でローマと衝突することになったのが、フェニキア人国家の、ハンニバルが率いたカルタゴです。

ローマとカルタゴの戦いを、ポエニ戦争と言います。

そしてポエニ戦争は、ローマが勝利し、ローマが地中海の覇者となりました。

世界遺産 カルタゴ遺跡

現在のチュニジアに、カルタゴの遺跡はあります。

軍港の中央には船の設計や修理に使用したドックの跡が残っています。

かつては倉庫や住居も兼ねたドックが築かれ、軍船を収納していたと考えられます。

その後のローマ

その後ローマは、共和政から、強大なリーダーシップを持つひとりの皇帝が国を治める「帝政」という段階に移ります。

国家の規模が大きくなるほど権力が集中するのは、歴史の1つのパターンと言えます。

ここから、ローマは「ローマ帝国」となります。

地中海世界が圧倒的な力を持つローマ帝国に統治され、ローマ帝国内には誰もが平和を享受できるローマの平和(パクス=ロマーナ)の時代が到来しました。

その後、コンスタンティヌス帝は、ミラノ勅令という命令を出し、キリスト教を公認します。

キリスト教の力を借りて、帝国をまとめようとしました。

コンスタンティヌスは帝国の東方の当時を重視して、ビザンティウム(現在のイスタンブール)に都を移し、コンスタンティノープルと改称します。

その後、ローマ帝国は東西に分裂します。

ローマ帝国の東西分裂後、ルネサンスが始まるまでの約1000年間を中世と言います。

ローマ帝国の末期、アルプス山脈の北ではゲルマン人と呼ばれる人々が狩猟や牧畜を行っていました。

4世紀後半、アジア系のフン族が、東から突如ゲルマン世界を圧迫し始めます。

そして、ゲルマン人の大移動が始まります。

この移動の混乱の中で、西ローマ帝国は滅亡します。

大移動を行ったゲルマン人の諸民族の中でも、フランク人が建国したフランク帝国が最も力を持ちました。

その後フランク王国は東フランク王国、西フランク王国、イタリアの3つに分かれました。

そのうちの東フランク王国は、神聖ローマ帝国と言われるようになります。

執筆者:山本和華子

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