虐待サバイバーだけど、親や先祖に感謝? その2 ~愛と生のお話~

最近、「愛」とか、「人を愛する」ってどういうことなのかなということを考えていました。

私は虐待サバイバーだったというお話を、以前の記事に書きました。

親や母方の家系に愛されてなかった私ですが、誰か人さまを愛することはできるのかな?




マンガ『タッチ』の登場人物で、私はもっぱら新田由加ちゃんが好きなのですが、

浅倉南ちゃんの、たっちゃんへの愛について、少し考えていました。

南ちゃんは、半分くらいは「私を甲子園に連れてって♪」と思っていたかもしれませんが、

もう半分、もしくはそれ以上に、「私がたっちゃんを甲子園に連れていくんだ!」という意気込みだったんじゃないかなと思います。

それが、南ちゃんの、たっちゃんへの愛だったんじゃないかなと。

私ももし、これから愛する人ができたら、その人が見たい景色に、「私が彼をその景色へ連れていくんだ!」という意気込みで愛するのではないかと思います。

さて。私はおばけは見えません。

視覚的な霊感はありません。見えたら怖いし。

しかし、中学生のときに、とある霊媒師の方から、

「あなたは霊媒体質なので気を付けなさいね」とは言われていました。

自分でも、視覚以外の霊感があることを自覚しています。

なので、心霊スポットのような禍々しい所へは行きません。体調が崩れるので。

日本の伝統芸能の一つに、「能」があります。

能というのは、ワキがシテの怒りや怨念を聴いて、シテの成仏を助ける、という演目が多いです。

(とはいえ、成仏しきれないので何度も上演されるのですが)

私は、そういう特性の霊媒体質だと自分で自覚しています。

私は以前、『歴史をたどる、プチ旅行』という本を出版しました。

内容は主に、日本国内の、敗北してしまった古代の地方豪族の声を聴いてまわる、というものです。

これは結構以前から覚悟はしておりましたが、資本主義とは別の次元で、

私は、河原者、遊女、傀儡子、サンカなどの、辺縁に生きた無縁仏の声を聴いて彼らの成仏を助けるとか、

彼らが果たしたかったこと(歌を歌ったり、人生を楽しんだり)を、

私は現世において彼らの魂と共に人生を謳歌するとか、

そういったものが、私の生涯における天命の一つなのかなと考えています。

さて、前置きが長くなってしまいました。

昨今、SNSは、毎秒ごとに大量のマウンティング戦争の戦地と化していますね。

それは主に優生思想に基づくマウンティング戦争が多いように思います。

何をしていても、言いたい人は出てくるので、言わせておきましょう。




私は母方の家系で、ずっと「要らない子」として育ってきたわけですが、

私も一応「人」なので、生きているうちにはどこかで先祖に感謝をし、「供養」をしなければならないわけです。

供養とは本来、「共に生き、養い成長していく」という意味で、亡くなった人たちの夢や願いを受け継いで、ともに生きていくということが供養の本質なのです。

私は、河原者、遊女、傀儡子、サンカなどの、辺縁に生きた人々の夢や願いを受け継いで、ともに生きていくのだなと自覚しています。

平安時代、当時の白拍子たちの言葉を記した『梁塵秘抄』には、「遊びをせんとや生まれけむ」という言葉が残っています。

「人というのは、遊ぶためににこの世に生れてきたのではなかろうか」というような意味合いです。

日本には儒教の教えから、「家族を大切にしなさい」とよく言われますが、

もともと、儒教を創始した孔子の母は、雨を降らせるための巫女さんで、

家父長制の系譜という意味に規定された家族だけを「家族」と呼んだわけではありませんでした。

「アカシックレコード」という言葉があります。

ざっくりと、「私たち人類すべてのご先祖さま」というような意味合いです。

レオナルド・ダ・ヴィンチもそうですし、李白もそうです。

名もなきソグド人もそうですし、フェニキア人もそうです。

みんな、アカシックレコードで、私たち人類のご先祖さまです。

私はそういう、アカシックレコードのご先祖さまの夢や願いを受け継いで、

私のこの身体を介して彼らと現世で共に踊り、歌い、遊び、

供養をする人間として生きていくのかなと思っております。

それが私なりの、先祖供養です。

執筆者:山本和華子

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