みなさんこんにちは。
今回は、日本の戦後処理の流れについて解説しました。
ドイツの戦後処理はいたるところで聞きますし、言語化もしっかりなされているのに対し、
日本の戦後処理ってあんまり聞かないのはなぜだろうかと思ったことが、
日本の戦後処理の流れを調べようと思ったきっかけです。
また、ぽつりぽつりと、断片的に情報は公開されているけれど、
日本の戦後処理の体系的な情報や書籍ってあんまりないな、と思ったのも、
この記事を書こうと思ったきっかけでした。
東京裁判とは
東京裁判とは、第二次世界大戦で敗北した日本に対し、連合国が行った裁判のことです。
「極東国際軍事裁判」とも言われるこの裁判は、1946年5月から1948年11月にかけて行われ、
戦争犯罪人とされた当時の軍人や政治家が裁かれました。
この裁判によって、7人のA級戦犯が死刑になると共に、
BC級戦犯として5000人以上が被告人とされ、このうち1000人以上が死刑判決を受けました。
【平和に対する罪(A級犯罪)】
国際法を守らない形で戦争を引き起こす行為。
東京裁判では、平和に対する罪で23名が有罪となる一方で、
東京裁判やドイツのニュルンベルク裁判のために制定された「事後法」なのではないかという批判もあります。
【日本国憲法第39条 事後法・遡及処罰の禁止・一事不再理】
法の不遡及(ふそきゅう)・・・過去に遡って刑罰を与えることはできない
一事不再理(いちじふさいり)・・・一度無罪が確定した行為は、罰せられない
要するに、まだ世の中には「Aという行為が犯罪である」という国際法が無い中で、
Aという行為をおこなった国には、その行為をおこなった事後に、
その国のことを「Aという行為をおこなった」という理由で刑罰を与えることができない、という意味ですね。
【(通例の)戦争犯罪(B級犯罪)】
戦時に国際法という、戦争において軍事組織が守らなければいけない国際法を遵守しなかった事に対する犯罪。
【人道に対する罪(C級犯罪)】
一般市民に対して、殺害や絶滅、拷問などの危害を加えた者に対する犯罪。

東京裁判の論点と、パール判事の無罪の主張
【東京裁判の論点】
東京裁判とは、勝者である連合国が、敗者である日本の指導者を処罰した「勝者の裁き」なのではないかという指摘
もあります。
冷戦が本格化した中でおこなわれた東京裁判は、アメリカ、イギリス、それらの衛星国と、ソ連の間での政治的な対立の場であったとも言われています。
東京裁判とニュルンベルク裁判の両裁判は、戦勝国にとって都合の良い歴史解釈を固めるものとなりました。
【パール判事の無罪の主張】
東京裁判において、11人の判事の中でただ一人、インド代表のパール判事は、被告人全員の無罪を主張しました。
●事後法で過去の行為を裁くことは、法の大原則に反している
●欧米列強による長年のアジア植民地支配といった歴史的背景を無視し、日本のみを断罪することは公平ではない
●この裁判は、厳密な法的手続きではなく、戦勝国による政治的な儀式に近い
さらにパール判事は、日本は資源を絶たれたことによる自衛の側面があったことも指摘しています。
彼の思想は、インドの指導者ガンジーが提唱した非暴力・非殺生の精神に深く根差したものでした。
先ほどの、「日本が資源を絶たれた」についてですが、これは1929年の世界恐慌以降、植民地を持つ欧米列強の国々がブロック経済という保護貿易を開始したために、当時植民地を持たなかった日本が資源の輸入が困難になった、という背景があります。

日本が他国に支払った賠償金について
1951年、西側の連合国48か国と日本との間で、
第二次世界大戦の講和条約である「サンフランシスコ平和条約」が結ばれました。
この条約に基づいて、日本はフィリピンやベトナムに対して賠償金を支払いました。
その他の、戦時中に侵略したアジアの国々に対しては、
賠償金に代わって資金・技術・貿易などの経済協力を多くおこないました。
スリランカ代表による対日賠償権の放棄について
1951年に開かれたサンフランシスコ講和条約において、日本を分割占領から救ってくれたのが、
当時スリランカ代表を務めていたジャヤワルダナ氏でした。
ジャヤワルダナ氏は平和条約への賛成を表明した後、その賛成の理由を述べました。
「アジアの諸国民が、日本は自由でなければならない(日本の独立の回復)ことに関心を持っているのはなぜでしょうか。
私は、日本の、アジアに対する共栄のスローガン(大東亜共栄圏)が、
西欧諸国の植民地だった国々の人々から魅力的に映ったこと、
そしてビルマ(現ミャンマー)、インドおよびインドネシアの指導者たちが、
自分たちの国が開放されるかもしれないと希望を持ち、日本人と同調したことが思い出されます。
よって、日本に対する賠償請求権を放棄します。
その理由として、ブッダの「憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ愛によってのみ消え去るものである」の言葉を引用します。」
実際に、ビルマ、インド、インドネシアでは、日本の支援によって設立された独立軍が、
これらの国々の独立戦争に大きな役割を果たしました。
大東亜共栄圏やアジアの平和について、もっと詳しく知りたい方はコチラの記事がオススメです↓


GHQとは
GHQとは、日本が敗戦した1945年からサンフランシスコ平和条約が締結される1952年まで、
アメリカ中心の連合国によって日本を占領していた連合国最高司令部(General Headquaeters)のことです。
GHQの最大の目的は、日本の非軍事化でした。
GHQは第二次世界大戦で日本を主導していた軍人や政治家などを逮捕して、軍事裁判(東京裁判)にかけました。
大日本帝国憲法は軍事的要素が強く、また天皇中心の内容であったため、
それに代わる国民主権・平和主義・基本的人権を基本とする日本国憲法を作成するよう、
GHQは日本政府に指示しました。
日本国憲法の第9条には、戦争の放棄が書かれており、軍を持つことが禁止されました。
GHQが実施した五大改革とは
GHQが実施した五大改革とは、敗戦後の日本を民主化するために、GHQが実施した5つの大改革のことです。
①女性への参政権付与
②労働組合の結成促進
③教育制度の民主化
④治安維持法や特別高等警察など、国民の言論や思想を弾圧する組織・制度の廃止
⑤経済の民主化
治安維持法や特別高等警察について。もっと詳細が知りたい方はコチラの記事がオススメです↓

【教育制度の民主化】
戦前には必ず覚えなければならなかった教育勅語(ちょくご)が廃止され、思想の自由化もおこなわれました。
教育勅語には、明治天皇が国民に語りかける形で、愛国主義や儒教的道徳などの教えが書かれていました。
【経済の民主化】
戦前の日本の経済を握っていた財閥(三菱、三井、住友、安田)を解体し、独占禁止法を制定しました。
アメリカとしては日本の力をなくすための政策でしたが、結果的に日本では、
ソニーやホンダなどの戦後新しくできた企業の力が伸び、経済成長の後押しにもなりました。

GHQの間接統治について
GHQによる日本統治は、間接統治によっておこなわれました。
間接統治とは、GHQが日本政府にさまざまな命令・指示を送り、統治する方法です。
一方ドイツでは、アメリカ・ソ連・イギリス・フランスの4国による直接統治がおこなわれ、
ドイツ政府(ナチス)は解体されました。
GHQの最高司令官ダグラス・マッカーサーが日本の社会・文化に精通した人物だったこともあり、
間接統治が採用されることになりました。
「日本人は、政府から重い負担を強いられ戦争にも敗北したにも関わらず、
今もなお、政府の最高責任者である天皇に崇敬の念を抱いている。
敗戦後であるのに社会に秩序が保たれているのも、国民の多くが天皇を信じているからだ。
日本政府を残したまま、「GHQ→日本政府→国民」と指示を出した方がスムーズに事が運ぶだろう」
そして1952年、サンフランシスコ平和条約の締結により、GHQは廃止されました。

サンフランシスコ平和条約とは
サンフランシスコ平和条約とは、第二次世界大戦後の1951年に、
日本とアメリカとの間で結ばれた講和条約です。
当時の日本の首相であった吉田茂が、日本と第二次世界大戦で戦った49カ国との間で、
平和条約が調印されました。
この条約により、日本は独立国となりました。
サンフランシスコ平和条約と同時に、日米安全保障条約も締結されました。
これにより、アメリカ軍が在日米軍として日本に駐留することになりました。
日米安全保障条約の内容は、日本の内戦には干渉するけど、
日本が他国に攻撃されたときに日本を必ず守るという取り決めは明文化されませんでした。
そのため、日本にとって不利益や不安感が残る条約となりました。

ヤルタ会談とは
ヤルタ会談とは、1945年2月にソ連領内のクリミア半島のヤルタで開催された、
第二次世界大戦後の世界について決めた会議のことです。
ヤルタ会談では、ドイツと日本に対する戦後の処遇を決めることになりました。
そこでアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、ソ連のスターリンが集まりました。
極東問題では、日本の戦後の処遇と、ソ連の対日参戦が決められました。
イギリスと旧ソ連についてもっと詳しく知りたい方は、コチラの記事がオススメです↓


サンフランシスコ平和条約に調印した吉田茂について
吉田茂は、戦前に外交官を務め、戦後に長期政権を築いた人物です。
1928年、田中義一内閣の外務次官に就任します。
吉田茂は、「日本はアメリカやイギリスと協調的な立場であるべき」と考えていました。
1937年、日中戦争を経て国内では戦時体制が形作られていきます。
吉田茂は、日独伊三国同盟の締結に強く反対していました。
また太平洋戦争開戦間際には、アメリカの外交官ジョセフ・グルー氏と面会し、開戦回避を図っていました。
戦時中、1945年3月、吉田茂は近衛文麿元総理大臣と共に、昭和天皇に対し、
和平を進める内容を上奏した「近衛上奏文」の起草に関与しました。
1945年4月15日、吉田茂は憲兵隊により検挙され、以後40日間、陸軍刑務所に収監されました。
戦後にGHQが日本の統治を始めたとき、吉田茂はGHQから信頼を得るようになりました。
1946年、吉田茂は内閣総理大臣に就任し、1951年にはサンフランシスコ平和条約を締結し、
日本は独立を果たしました。
第二次世界大戦後の日本は、国家の再建のための方針として、「吉田ドクトリン」が採用されていました。
その内容は、日本の安全保障や国防は、日米同盟を基軸としてアメリカに担ってもらい、
日本は軽武装のもとで経済復興を優先するというものでした。

シベリア出兵とは
シベリア出兵とは、第一次世界大戦が終戦を迎える年である1918年から1922年にかけて、
日本・アメリカ・イギリス・イタリアなどがシベリアに軍隊を送った出来事のことです。
シベリア出兵の目的は、ロシア革命に対して干渉するためでした。
1917年、レーニンが主導したロシア革命により、ソビエト政権が樹立しました。
資本主義の国々の指導者たちは、社会主義が世界に広がると困る、と考えました。
そこで日本は、アメリカなどと共にシベリアに出兵することを発表しました。
1918年11月、第一次世界大戦は連合国側の勝利で終わり、その時点でアメリカ軍は撤兵しました。
しかし、日本軍はそのままシベリアに残り、ロシアと戦い続けました。
その理由としては、日本は以前から、ロシアの南下政策に悩まされてきたという背景があります。
しかし、日本の単独行動は、アメリカからの不信を招いてしまいました。
1922年に日本政府は、シベリアを支配下に置くという現実離れした野望を諦め、撤兵を決定しました。
シベリア抑留とは
シベリア抑留とは、第二次世界大戦の終わりに、旧ソ連に日本兵たちが連れていかれ、
シベリアなどの寒い地域で働かされた出来事です。
終戦直前の1945年8月9日、ソ連は突然日本に戦争をしかけてきました。
当時、満州や樺太、千島列島などで戦っていた日本兵たちはソ連軍につかまり、
貨物列車に乗せられ、シベリアの収容所へ向かわされました。
ソ連が日本兵をシベリアに送った理由は、人手不足を解消するためでした。
日本兵たちを働かせて、鉄道を作らせたり、炭鉱で働かせたりしました。
シベリア抑留に連れていかれた日本人は、およそ57万5千人にものぼると言われています。
そのうち、極寒、飢え、病気、過労、劣悪な衛生環境により、多くの人が命を落としました。
1946年末、ようやくソ連は抑留者の帰還を始めますが、すぐには進まず、
1956年に日本とソ連が国交を回復するまで、完全には解決しませんでした。
日本の戦後処理を学んで思ったこと
日本の戦後処理の一連の流れを学んで思ったことは、本当にたくさんあります。
まず、私はシベリア出兵とシベリア抑留についての知識があいまいで、違いがよくわかっていませんでした。
今回調べることで、それらは時期も違うし、起こった理由や背景も全然違うことがわかりました。
吉田茂の政策に関しては、私は9割方賛成です。日本が共産主義国家になるよりはずいぶんマシだったと思います。
ただ、1割、日本がその後、あまりにも「経済成長」に固執したあまり、「民主主義とは何なのか」、「国民主権とはどういうものなのか」について、日本国民がしっかり考える土壌がうまく育まれなかったのかなと思いました。
また、本当に人の幸せや平和を考えるなら、吉田茂のように、「自分はどういう意見を持っているのか」「どういう立場なのか」を明確にして、自分の信念を持つことが大切だと思いました。
昨今の表面的なニュースに一喜一憂するのではなく、政治や法律について、まずはしっかりと基礎を学ぶことが大切だと思いました。
現在の私たち日本人の平和な生活というのは、日本政府への不信感やアメリカへの思いやり予算、海外へのバラマキ外交や増税の上に成り立っていると思うと、その平和というものはあまりにも脆弱なのではないかと思いました。
日本において、というか世界において、「学び続ける自由」と「発信する自由」は、誰にも奪われてはならないと改めて思いました。
私たち「地球上に住む人類」が本当の意味で平和を享受し、平和の中で生き続けるためには、
どんな強さが必要で、どんな学びが必要なのかを、私たちは知っていく必要があると思いました。
執筆者:山本和華子
参考資料
●日本の歴史の面白さを紹介!日本史はくぶつかん
「東京裁判をわかりやすく解説。年表や3つの罪とは?」
●nippon.com
「東京裁判を振り返る 21世紀からの視点」
●日本国民のための政治経済チャンネル
「【戦後80年】「自虐史観」は東京裁判から始まった?パール判事と「戦後レジーム」を優しく解説!」
●Benesse
「【近現代(明治時代~)】第二次世界大戦で日本は賠償金を支払ったの?」
●日本史事典,com
「【GHQとは】簡単にわかりやすく解説!マッカーサーの行った政策・改革について」
「【サンフランシスコ平和条約とは】簡単にわかりやすく解説!内容や竹島問題など」
「【ヤルタ会談とは】簡単にわかりやすく解説!場所や内容、北方領土について」
「【シベリア出兵とは】簡単にわかりやすく解説!目的や結果、米騒動との関係など」
●まれなきドットコム
「五大改革の内容を簡単にわかりやすくまとめてみた」
「GHQの占領政策を簡単にわかりやすく解説」
●日本文化研究ブログ
「教育勅語の全文と意味(現代語訳)とは?簡単にわかりやすく解説」
●History Style
「吉田茂の生涯と人物像とは?」
●リスク対策,com
「戦時下の外交官吉田茂・検挙事件」
●三菱総合研究所
「安全保障環境を戦後から振り返る」
●MAG2NEWS
「日本を分割占領から救った、スリランカ代表の「愛」の演説」
●学習塾リアル
「シベリア抑留をわかりやすく解説!なぜ起きた?帰還者はいた?」

