はいみなさんこんにちは。今日は、老子の教えについて解説していきたいと思います。
老子は、紀元前6世紀頃、中国の春秋時代に活躍したとされている思想家です。
道徳を修めた老子は、自分が有名になることは望んでおらずひっそりと暮らしていました。しかし、心身の衰えを感じ、ローマ帝国に旅立ったそうです。
その際に国境の関所にて、役人から「隠棲するなら、その前にぜひ教えを書いていただけませんか」と請われ、『老子道徳教』を書きあげました。
春秋戦国時代に現れた学派を「諸子百家」と呼びますが、そのなかの「道家(どうか)」は老子の思想をもとにしたもの。後に発展して宗教となった「道教」において、老子は始祖として神格化されました。
儒教や仏教と並ぶ、中国三大宗教のひとつが「道教」です。漢民族の伝統的な宗教で、宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す「道(タオ)」を概念の中枢に置いています。
では、老子の教えとは、一体どんなものだったのでしょうか。
それでは行ってみましょう。
人は弱くなくてはならない。強いものは折れやすく、柔らかいものは保たれるのである。
大木は草よりも強い。しかし台風が来れば、大木はなぎ倒されてしまう。しかし、草は何ともない。つまり、弱いものこそが強いと言えるのである。
老子の思想は、いっときの付け焼刃(つけやきば)ではなく、広大で、順境のときも逆境のときも適応し、回り道をしても進んでいく、といったものでした。
老子の言葉に、「上善水の如し」という言葉がある。水は万物を助け育てながらも自己主張しない。そのはたらきには無理がなく、変化に応じる。この水のように、他者と戦わぬものが、かえって自在な能力を得るという考え方です。
世の人々は、「有」の利益は知っていますが、「無」のはたらきは知りません。例えば湯のみ。中に空間があるからこそ、注ぎ入れることができます。
一軒の家も、空間という「無」のおかげで、住むことが出来ます。
「有」がもたらす便利は、「無」があってこそのものなのです。
これを老子は、「無用の用」という言葉で表現しました。
老子の言葉に、「無為自然」という言葉がある。無為とは、ことさらな作為や小細工をしない、という意味で、自然とは、あるがままに、というニュアンスがあります。
無理は長続きしないし、メッキはいつか剥がれる。あるがままに生きよう、と老子は言っているのです。
また、「和光同塵」という言葉もある。和光とは、光を和らぐという意味で、自分の持っている光、つまり才能は見せびらかさないほうがいいということです。また、同塵、塵に同じというのは、世俗と同調し、偉ぶったりしないという意味です。
素晴らしい才能に恵まれたとしても、それをひけらかさないようにするのがいいと老子は説きました。
「足るを知ればはずかしめられず、とどまるを知ればあやうからず」という言葉も老子は残しています。
足るを知ること、とどまることをよく心得なさい、という意味です。
「自ら知る者は明なり」という言葉も、老子は残しています。
他人を知ることは、むろん難しい。しかし、それよりもっと難しいのは、自分を知ることだと老子は説いています。
執筆者:山本和華子
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