『茶の本』は、明治時代に思想家である岡倉天心が、欧米の読者に向けて英語で執筆したものです。
天心は、茶には日本文化や東洋文明の精神が凝縮されていると考え、茶のあらゆることを書くことを通して、日本文化の根底に流れる世界観がどのようなものであるかを、『茶の本』では説いています。
当時、欧米の進んだ文化や技術を熱心に取り入れようとしていた時代に、天心は、失いかけていた伝統日本美術の復興をさせようとしていました。
『茶の本』では、茶道の背景にある哲学について言及しています。
中国の老荘思想を出発点に、それを引き継いだ道教、さらにそれを引き継いだ禅が、茶道を支える哲学の系譜であると天心は論じました。
また天心は、東洋芸術の極意についても言及しています。東洋芸術の極意とは、芸術家が自己表現を押し付けるのではなく、自分をからっぽにして相手を呼び込み、自由な発想を引き出すことによって、自他一体の境地に達することにあると主張しました。
東洋の芸術が目指すものとは、芸術家・鑑賞者・自然の三者が融合することだと説きました。
また、芸術の真の意義とは、作品を媒介にして、芸術家と鑑賞者が共感し、コミュニケーションを取ることです。そのためには、双方が謙虚に相手を思いやることが重要だと論じました。
茶会は、1人で出来るものではありません。主人が茶を点て、客がそれを飲むことによって初めて完成する。この話にも通じるでしょう。
『茶の本』が書かれた時代は、ちょうど日本が日清・日露戦争に勝利した時代でした。したがって、欧米社会では、にわかに日本に対する関心が高まりました。しかし、その関心とは、もっぱら日本人の戦闘性に向けられていました。それを天心は指摘し、日本文化の本質は、戦いよりも平和と調和を求めることにあり、そうした理想を集約したのが茶なのだと説きました。
天心は、「茶道は姿を変えた道教である」と述べています。では、道教の教えとはどんなものだったのでしょうか。
「道」が茶に影響を与えているものとして中心となるのは、ものごとを相対的に見る目と、不完全の美学だとしています。
道教は虚であり不完全であることにこそ価値を見出しています。
絵の余白のように、常に新しい発展の可能性を見出しておくことが重視されます。
また、天心は禅宗に関しても言及しています。
禅宗は、日常生活そのものが真理に到達する道であるとされています。そして、これらの考えを最も集約したものが「一杯のお茶を飲む」という行為であると、天心は説きました。
また天心は、茶室についても語っています。非対称な茶室は、常に心の動きを喚起します。それは、東洋の美術において大変重要なことであると天心は主張しました。
更に天心は、茶室を、室内の内部にばかり注目するのではなく、露地などの外部の環境とあわせて一体的に見るべきだとも強調しました。
待合から始まり、露地を通り、茶室に入って、茶事を行うという段階を踏んで進んでいくっ全体が茶会だと説きました。
最後の章では、自然と人間の究極的な合一としての死が語られます。死とは自然に帰ることであるという茶人の死生観を述べ、この本を締めくくっています。
自然は人間より偉大であり、無闇に人間の手を加えるべきではないという老荘思想の「無為自然」を下敷きとしています。
執筆者:山本和華子
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