はいみなさんこんにちは。
今日は、大伴家持と有間皇子に焦点をあてて、万葉集について書いていこうと思います。
有間皇子
万葉集には、有間皇子(ありまのみこ)の歌が載っています。
有間皇子は、飛鳥時代の皇族です。孝徳天皇の遺児で、中大兄皇子は従兄にあたります。
有間皇子は有力な皇位継承者の一人と見なされていました。
ゆえに、常に中大兄皇子の猜疑の目にさらされていました。
658年11月、中大兄が牟婁(むろ)の湯に滞在中、都で謀反(むほん)を企てたとして、有間皇子は捕えられます。
有間皇子は、牟婁の湯に連行される途中、岩代で歌を詠みました。
磐城の浜松が枝(え)を引き結びまさきくあらばまたかえり見む
訳)岩代の浜松の枝を引き結んでゆく。幸いにもし無事だったら、また立ちかえってこれを見よう。
「生きて再び戻ることができれば、この松枝の結び目を見ることもできるはず」と、
有間皇子は生きて帰ることを切実に願ったのです。
当時、中大兄の政治の非情さには定評がありました。
そんな中、有間皇子は殺されてしまいました。
冤罪だったと言われています。

大伴家持
大伴家持(おおとものやかもち)は、奈良時代の歌人、政治家です。
大伴家持の歌は、複雑かつ絶妙な感覚を持っていました。
大伴家持は、軍事貴族の名門、大伴氏の出自です。
彼は大伴氏の跡取りとして、強い誇りを持っていました。
しかし当時、大伴氏は確実に没落しつつありました。
家持の代では、豪族としての大伴氏の力は弱まっていました。
大伴家持は大伴氏の跡取りとして、さまざまなライバルから大伴氏を守ろうとしましたが、
政治的にはタフではありませんでした。
大伴家持が万葉集の編纂に関与した理由の一つとして、大伴氏の名を歴史に刻むことが挙げられます。
当時、藤原氏が政治の実権を握る中、家持は軍事貴族である大伴氏の誇りを、和歌という形で残そうとしたと考えられています。
うらうらに照れる春日(はるひ)に雲雀(ひばり)あがり情悲しも独しおもへば
訳)うらうらに照る春の日に、ひばりがさえずり、もの悲しい気分だ、ひとり思えば。
音(声)に耳をすますという聴覚表現は、大伴家持の歌の特徴です。
執筆者:山本和華子
【参考文献】
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