昨今、中国古典の入門書って結構流行ってますよね。
私もその流行りの流れで、論語とか読みました。
でも、一応一通り読んだところで、
実際にその中国古典の教えを実生活にどう活かすことができるかって、
それはなかなか見出すことが難しいかもしれません。
図鑑みたいに言葉をただ脳内にインプットするだけでは、何も学びにはなりません。
今日は、私が実際に中国古典をどんな風に実生活に活かしてきたのかについて書いていきたいと思います。
菜根譚
「菜根譚(さいこんたん)」とは、明代末期に、洪自誠(こうじせい)という人物によって書かれた随筆集です。
菜根譚の「菜根」という言葉は、「人はよく菜根を咬みえば、すなわち百事をなすべし」という故事に由来しています。
つまり、堅い野菜の根っこをかみしめるように苦しい境遇に耐えられたとしたら、人は多くのことを成し遂げることができる、という意味です。
私は菜根譚の「前集4」の文章に出会い、自分の際限なき欲望にまみれた生きざまを改めることになります。
菜根譚 前集4
勢利粉華(せいりふんか)は、近づかざる者を潔しとなし、これに近づきて而(しか)も染まらざる者をもっとも潔しとなす。智械機巧(ちかいきこう)は、知らざる者を高しとなし、これを知りて而(しか)も用いざる者をもっとも高しとなす。
現代訳)華美権勢に近づかないのは清廉な人物である。
だが、それに近づいても染まらない人物こそ、もっとも清廉だと言える。
権謀術数を知らないのは高尚な人物である。
だが、それを知りながら使わない人物こそ最も高尚だと言える。
私は20代の頃、いかにSNSのアカウントをキラキラさせてセレブごっこして、
みんなから「いいね」をもらうことで自分の承認欲求を満たすことができるか、に命をかけていました。
実家の太いお嬢様には絶対に負けたくない、その一心で、際限の無い承認欲求は膨大に膨れ上がり、
それと同時に借金も膨大に膨れ上がっていました。
また、裏技や裏道を使うことで、社会の旨いこぼれ汁を吸おうなどとも企んでいました。
そんな折、菜根譚に出会いました。
最初、この文章を読んだとき、素直に受け入れることができませんでした。
私の言う裏技や裏道というのはつまり、権謀術数のことです。
権謀術数が仮に存在するとしても使わないことの賢明さを、私は菜根譚を通して知るのです。
また、実家の太いお嬢様のキラキラなセレブ生活を目の当たりにしたとしても、自分は清廉でいることの賢明さも、学びました。

易経
易経は、伏羲(ふっき)という人物が著した書物が元になっているもので、宇宙の秩序や自然の変化を象徴的に表現した学問体系です。
易経には、「吉凶悔吝(きっきょうかいりん)」という教えがあります。
吝とは、ケチ、惜しむの意味です。「まぁまだこれくらい大丈夫だろう」と、気付くことを惜しむことです。
悔とは、気付いてこれまでの生きざまを後悔するという意味です。
そのときに本気で後悔したのなら、どんなに寒さが厳しかろうが、大変であろうが、ゆっくりと吉に近付いて行けるのです。
吝と悔の境目、つまり気付く覚悟ができるか、そのままにしておくのか、その境目が、吉と凶の分かれ目になる、というのが、吉凶悔吝の意味になります。
私の場合は、菜根譚の教えを知ったとき、これまでの自分の生きざまを後悔して悔い改めて、軌道修正していくのか、
それとも、菜根譚の教えを観なかったことにして、今までの借金まみれのキラキラ実家太いお嬢様ごっこを続けるのか、
その境目の渦中だった、ということになりますね。
執筆者:山本和華子


