第一章
グレゴリー・ベイトソン「二次学習」・・・世界についての事実を暗記することを目的としない。自然から学べるようになることを重視する。世界自体が学習の場となる。
考えることとつくることの関係
現在生じていることと世界との関係を調整する→応答(コレスポンダンス)
応答は、世界についての情報を蓄積するのではなく、世界により良く対応するためにそれは必要とされる。
学ぶことは実践の中で理解すること・・・知覚、創造性、スキルの相互関係の探究
第二章
・作業が進むにつれてうまく解決していくような即興的な創造性
・あらかじめ考えた決定済みの帰結に向かって目新しい経験のなかを進んでいく創造性
物質的文化・・・物質的につくられた観念と、文化的に表現された自然の素材を一度に表象すること
つくることは成長の過程
わたしたちが有機体と人工物のあいだに引く線引きをあいまいにしてくれる。
有機体が成長するのなら、人工的な作品もまた成長する。
本書の目的は、つくることが成し遂げてみせる創造性を祝福すること
物質性という言葉は、いかに世界の物質的な特徴が人間の課題のなかで理解され、認められ、それに巻き込まれているかを意味する。
絵を描くことよりも先立つ、画家の素材に関する知識は、根本のところで錬金術的である。
昔の人たちが石を選んだのは、固体性と耐久性のためではなく、流動性や変異性のためだった。
今どのような実在的な外観の形状をとっていようと、物質は常に何か別のものに生成しようとしている最中。
→常に進行中の歴史性
つくることは対応していくプロセス・・・あらかじめ考えた形式を押し付けるのではなく、生成する世界のなかで、素材に内在する潜勢力を引き出して力を産出すること
第三章 握斧
先史時代の握斧(ハンドアックス)・・・実践的な用途に使えるかどうかは定かではない。
→300万年以上にわたり三大陸にまたがって継続した、その観念の不変性
ハンドアックスをつくる人たちを「アルカントロピアン」と呼んだ。
ハンドアックスは、アルカントロピアンの身体から沁みだしたかのような技術的活動だった。
→生物学的な進化のリズムに従った。
人間は存在の閾を独自に飛び越えて、自然性を超越する領域に入ることを通してのみ、今の自分たちがあることを熟知している。
もし仮に、ホモ・エレクトスが小さくて使い勝手のいい、カミソリのように鋭い道具をつねに必要としていたのだとしたら、おそらく彼らは石核やハンマー代わりの石を持ち歩き、使っているときに、それ以上、有益に使用できないところまで石核が摩耗したとき、最後に彼らはそれを捨てたのではないか。
ハンドアックスを、骨格の延長として考える
第四章 家を建てること
建物は世界の一部であり、世界は停止したままではなく、つねに成長、衰退、再生のプロセスを展開している。
アイディアは結晶体のようであっても、実際のところは流動的である。
多くのヨーロッパの言語において、ドローイングという用語が、デザインという用語と同一のことを意味する。
デザインであれドローイングであれ、いずれの場合においても、動きやプロセスよりも、パターンや目的を示す。
構造の輪郭線は、素材に押し付けられるのではなく、建てること自体のプロセスから出現する。
シャルトル大聖堂・・・中世の建築物は多くの人間による即興的な作業の集積である。非規則的に配置されたちぐはぐな建築的要素のパッチワークといった趣きになっている。
第五章 現場の時計職人
デザイナーは完全を追い求めるのではなく、彼の持ち場は不完全な状態をなんとかやりくりすること。
生物にあってはその考案のプロセスは、その系列で世代交代が繰り返されるうち、その先行者とほんのわずかな差異をはらむことで、実際にはいつの間にか制御不能に陥ってしまう。
→複製のメカニズムは完璧とはほど遠いため、伝達されたデザインの諸要素において変異と再結合が誘発される可能性をもち、その結果、この進化というものが生じた。
デザインは、観察している当の科学者の想像のなかにある。
時計職人に要求される洞察力は、デザイン論がデザイナーに帰するものとは著しく異なる種類のもの。
→目前で起きている現象からくる思考ではなく、先を見るという行為のなかにある思考。
→素材に対してつねに一歩先んじていること
デッサンを描く手が、一貫して頭脳の思考を追い越している。
ものごとの最終形態や、そこに到るために必要とされる、あらゆる手順をあらかじめ決定することではなく、行く手を切り開き、通路を即興でつくること。
→これこそがまさに熟練家に継承されるもの。
ドローイング・・・糸で編んだり石を砕いたりする行為のように、動作や身振りの刻印された痕跡として考える。
デザインとつくることの関係性は、物質的な束縛への抵抗のあいだの緊張にある。
第七章
生ける命ある存在の私たちは、自分や互いの存在を「パッケージ化された」ものとしては経験していない。周囲にあるものとの応答、つまり、コレスポンダンスのなかで、ものを動かし、ものに動かされる存在として自他を経験している。
作品を観るとは、アーティストの道連れになり、作品がこの世界で展開していくのを作品とともに見る。
芸術作品の生命は作品の素材に根ざしている。なぜならすべての作品は、いまだかつて真の意味で完成したことはなく、生き続けているから。
アンディ・クラーク「拡張された精神」・・・心は常に周囲にあふれ出て、身体の外のあらゆる対象や人工物の協力を得て作用する。
心は世界を映す鏡ではない。実践の最中に脳や身体、ものの協同的な連結を通じて現れる。
自分が世界とコレスポンダンスすると、お互いの区別がつかなくなってしまう。
このような結合こそ、つくることの本質である。
第八章 手は語る
手は触覚の器官として卓越しているばかりか、この世界についてのストーリーを語ることもできる。ジェスチャー、書き言葉、線描が残す軌跡によって。
手は、人間の本質である。
特定の手の動作を規則正しく反復すること。
たとえば縫うことや削ることなど
実際の物の形はリズミカルな動作のパターンから生じる。
リズムとは、形の創造者である。
制作はすべて、制作者と素材との対話である。
<第9章 線を描く>
ドローイングの本質は、内面の精神的な心象をページの上に投影させることとは真逆である。
ドローイングを手の運びから切り離して、投影されたイメージに再構成したのはカメラである。
自然界に線は存在しない。
ドローイングの線は、技術や慣習に根ざしている。
線は表象上の慣習にすぎない。
内容を気に入っていただけましたら、ぜひ本書を手に取って読んでみることをお勧めします。
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