神話の本質的な意味について
世界各国に残っている神話というものは、要するに「俺たちの集団が信じている物語」のことである。
神話というのは、言葉として意図的に残したからこそ残っているのである。
おそらく、それよりももっと太古にも、あまたの民族・部族が口伝により伝承された「俺たちの物語」は無数にあったんだと思う。
だから、現在たまたま目に見える言葉として残っている神話は、人類史の神話の一部分にすぎない。
私は大学時代、心理学を専攻していたということもあり、古代神話というものは、その土地に残る民族・部族の深層心理が反映されたものだと思っていた。
しかし、それはどうやら違うな、というのが、現在の私の考えである。
日本の古事記や日本書紀は、古代日本の文明の上に歴史を上書きするために書かれた。
だから、本来、地元のヒーローだった両面宿儺とかが悪者として書かれている。
バラモン教も、あとから来たアーリア人によって、ドラヴィダ族が築いたとされる古代のインダス文明の歴史を上書きするために書かれた。また、アーリア人の権力を確立するために、バラモン教にはカースト制が取り入れられた。
ギリシャ神話も、あとから来たドーリア人やイオニア人などによるアルカイック時代の人々が、エーゲ文明、ミノア文明、ミケーネ文明の上に歴史を上書きするために整理・編纂されたと私は仮定した。
神話の本質とは、文明と政治権力の上書きである。
人類の欲望の歴史について
現代、鈴木祐さんや前野隆司さん、岸見一郎さんを筆頭に「幸福」をテーマに本を執筆し、人々が幸福について人生を考えることが多くなった。
しかし、人類が太古から「幸福」を手に入れようとしてきたわけではない。
「幸福」を得ようとする人生観は、人類史においては一時的な流行でしかないんだろうと思う。
そもそも生命というのは、単なる遺伝子の乗り物でしかなく、遺伝子を後世に残すことに最適化されているだけであり、幸福を得ようとするときは、能動的に何かを考えたり行動を選択していく必要がある。
元々人類は、不老不死、子孫繁栄、国家繁栄など、己の欲望をさまざまな名目で昇華してきた歴史があるが、その一つが、現在における幸福なんだと思う。
だから、幸福を得たいと思う欲望は、相対的なものでしかない。
これから未来、人類はどういう名目で己の欲望を表面化させるかはわからない。
執筆者:山本和華子
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