本来のパーリ仏典、トマス福音書に立ち戻ることの意味について

現代社会では、釈迦の教えもイエス・キリストの教えも、孔子の教えもムハンマドの教えも、かなりお上の都合よく作り変えられており、捏造さえされています。

私は、本来のクルアーンに立ち戻った方がいいと思うし、

本来のパーリ仏典に立ち戻った方がいいと思うし、

本来のトマス福音書に立ち戻った方がいいと思うし、

本来の論語に立ち戻った方がいいと思っている。

茶道でいえば、本来の陸羽の教えに立ち戻った方がいい。

何を日本の家元の流派の違いにより、くだらない内戦を繰り広げているんだろうと思っています。

私は、本来の教えに立ち戻った方がいいとは思っていますが、

それを別に他者に強要する気はまったくありません。

孔子の教えで言えば、日本では徳川家康の都合のいいように歪められて広がりました。

仏教の教えで言えば、日本では葬式仏教でマネタイズしていくために歪められて広がりました。

そういうわけで、お上の権力維持のために教義が歪められるのは、人類史の必然なのかもしれません。

私が仮に「本来の教えはこうなんだ!」と言ったところで、権力に黙殺されるだけです。

だから私は別に、自分の考えを他者に強要はしません。

自分の心に「神の国」があればそれでいいと思っています。

世の中には本当に色んな人がいて、私のように権力も持たずに自分の精神世界を豊かにして幸せを感じる人もいれば、

誰かの教えを、自分の都合のいいように歪めて他者に押し付けることで、自分の勢力を拡大することで幸せを感じる人もいるのです。

色んな人がいるよね~と思っています。

「集団社会」ないしは「国家」というのは、要するに物語や政治、イデオロギーにより一つにまとまる必要があります。

ゆえに、「一つの教え」というものが必要になってくるのです。

だから、例えば日本では、古事記と日本書紀が正統な歴史であるべきと見なされているわけです。

それは別に非難されることじゃない。

ただ、「今、この世界で生きている私」が、どんな教えを学び、自分の哲学として採用するかは、他者によって制限されるべきではない。

私は限界集落で家父長制の強い家族で、女として生まれて、多くを制限されて生きてきました。

そういうわけで、「世界が知りたい」という強い原体験が、私の中にはあります。

それで私は長い間、「親のスネで世界旅行に行った資産家の娘が羨ましい」と言い続けてきたのですが、

本当の「世界」、「神の国」というのは、自分の中にあるのです。

執筆者:山本和華子

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次