中国の近代史
袁世凱(えんせいがい)が死去した後の中華民国では、孫文率いる中国国民党、陳独秀(ちんどくしゅう)率いる中国共産党、そして各地で乱立していた軍閥たちが登場します。
かつて袁世凱政権と対立していた孫文は、1919年に中国国民党を結成します。そしてソ連の援助を受け入れて、中国共産党と連携して動いていくことを決めました。
そこで、ソ連と連携、共産主義容認、労働者・農民を助ける「蓮ソ・容共・扶助工農」というスローガンを掲げました。
目標は、諸外国から支援を受けている軍閥・帝国主義の打倒でした。
孫文の死後、中国国民党を指導したのが蒋介石(しょうかいせき)です。
蒋介石は共産党嫌いであったと言われています。共産党を排除した蒋介石は、1927年に南京で国民党を樹立し、1928年に中国統一が達成されます。
国民党軍に追われた毛沢東を含む中国共産党勢力は、農村地域へと逃げました。
そこで毛沢東は、貧しい農民の支持を得ることの重要性を知ります。
毛沢東は地主の土地を取り上げて、各農民に再分配する土地改革を行いました。
こうして毛沢東は、農民支持基盤を広げていきました。
一九三一年、日本の関東軍は、中国大陸の東北地方の南満州鉄道を爆破しました(満州事変)。
しかし蒋介石は、日本軍の東北地方への侵攻については、関与しない方針を取りました。実質的には、満州国を認めて東北地方を切り捨てました。
1936年、張学良(ちょうがくりょう)が動き出します。張学良は蒋介石を軟禁し、日本軍と戦うように説得します。
これを受けて、蒋介石は抗日戦線を敷くことを決意します。
第二次世界大戦後、蒋介石の国民党と共産党は再び衝突します。
1949年に国民党は敗北し、国民党は台湾へと逃れ、中華民国政府として現在まで維持しています。
国民党との戦いに勝利した共産党側の毛沢東は、1949年に中華人民共和国の成立を宣言します。
1950年に毛沢東はソ連のスターリンと会談し、中ソ友好同盟相互援助条約が結ばれ、社会主義国の道を歩むことが明らかにされました。
当時のソ連を見習い、中国では五か年計画を作成し、工業化と農業の集団化を目指しました。
しかし、急激な工業化・農業の集団化はまったくうまくいかず、毛沢東の信頼は低下しました。
1966年、毛沢東は権力の回復のために、共産主義を理想とするプロレタリア文化大革命を起こします。
共産主義を理想と信じ込み、知識人である教師らをリンチする事件も起きました。
一九七六年に毛沢東が死去すると、翌年に文化大革命は終了しました。
1981年、鄧小平(とうしょうへい)を中心とする新指導部は、「四つの現代化」をスローガンに農業・工業・国防・科学技術に力を入れていきます。 経済では現代化を進めていく一方で、政治は共産党による一党独裁体制を貫いたままだでした。
中国の産業・経済
中国の輸出統計の一位が機械類、二位が衣類。
中国の綿織物の生産量が世界最大である理由の背景には、衣類は労働集約型の産業の一つで、多くの労働力を必要とすることと、中国の綿花の生産が世界最大であることが挙げられます。
中国は世界最大の製造業国であり、特に電子機器、衣料品、家庭用品を生産しています。
米中の貿易摩擦により、中国国内での研究開発に力を入れ、国内でのイノベーションに注力する動きが広がっています。
現在の中国製造業は、付加価値の低い分野での労働集約型の産業が中心でした。今後、中国企業が付加価値の高い産業での研究開発を行い、国際的な競争力を高めていこうとしています。
中国は、国内の豊富な資源を活用して鉄鋼業が発達しました。しかし中国は、国内に豊富な鉄鉱石産出があるにもかかわらず、多くをブラジルやオーストラリアから輸入しています。
中国の鉄鉱石に鉄含有量は33%しかなく、採掘コストは高くなります。 逆に、オーストラリアやブラジルの鉄鉱石は鉄含有量が多く、採掘コストが安いために、中国は輸入という形をとっています。
中国の政治
現在の中国は一党独裁体制であり、中国共産党が単独で中国全土を統治しています。
国家主席や国務院総理が、全国人民代表大会(全人代)で決められます。 中国のトップは中国共産党の国家主席であり、2013年からは習近平(しゅうきんぺい)がそのポストに就任しています。
執筆者:山本和華子
ツイッター(@wakako_kyoto)もやっています。よかったらフォローしてね♪