なぜ日本人は「幸福追求の権利」の概念が希薄で、かつあまり個人の幸福に興味がないのか

はいみなさんこんにちは。

書店に行けば、幸福論について書かれている本は多数ありますが、

小手先のスキルで表面的に幸福になる話か、

精神科医が精神医学観点から幸福になる方法が書かれている話か、

そんなんの類ばかりのような気がします。

SNSを見たって、年収いくらかとか、FIREにさえなれれば幸せになれるはずみたいな投稿ばかりですね。

また世間に目をやれば、結婚して子どもがいた方が幸せに決まってる、とかね。

さらに、日本政府の向かう先が、まぁこれは大衆がそう望んでいることもありますが、とにかくGDPの順位を下げないで欲しい。GDPイズザゴッド。

幸せの物差しが本来は無数にあって、個人はその中から選択する自由がある、という考え方が非常に希薄。

全然面白くないなと思って、なんで日本人は幸福追求にまつわる知識が薄いのかについて、調べてみました。

目次

幸福追求の権利の歴史

まずは幸福追求の権利の歴史から見ていきましょうかね。

古代ギリシャの哲学者アリストテレスが、「人間の最高善を幸福(エウダイモニア)」として定義しましたことが、幸福追求の権利の発端と言われています。

幸福が徳の実践によって達成される最終的な目的だと考えたのですね。

次に、17世紀に活躍した哲学者、ジョン・ロックに目を向けてみましょう。

彼は、個人の生命・自由・財産の権利を強調しました。また彼は、政府の役割はこれらの権利を保護することであると主張し、この考えはのちに「幸福追求の権利」の基盤となりました。

同時代の哲学者、ジャン=ジャック・ルソーは、人間の自由と幸福が社会契約によって確保されるべきだと主張し、個人の幸福が社会全体の幸福と調和することを理想としました。

アメリカ合衆国建国の父といわれるトマス・ジェファーソンは、ジョン・ロックやジャン=ジャック・ルソーなどの影響を受け、独立宣言において「生命、自由、幸福の追求」という自然権をかかげました。

西洋人は、東洋人と違ってなぜ「個人」の概念が確立しているのか

西洋文化では、キリスト教の影響が非常に大きいです。

キリスト教は、神との個人的な関係を強調し、個人の救済や信仰が重視されます。

また、ギリシャ哲学、特にプラトンやアリストテレスの思想は、人間個々の理性や倫理的な行動を重視しました。

このため、個人としての存在や価値が強調されるようになったのだそうです。

法律の観点では、西洋は法の支配が確立され、個人の権利が法律によって守られるという考え方が強調されてきました。

契約社会や市場経済の発展も、個人が独立して行動し、権利を主張する基盤を提供しました。

一方で東洋文化では、仏教や儒教、道教が大きな影響を与えてきました。

特に儒教では、個人は家族や社会の一部としての役割が強調され、個人の幸福は全体の調和の中にあるとされます。

東洋社会では、法よりも道徳が強調されることが多く、個々の行動は共同体や家族の価値観に基づいて調整される傾向がありました。

法制度があっても、個人の権利よりも社会全体の調和が優先されることが多く、これが個人主義の発展を制約する要因となったそうです。

執筆者:山本和華子




こちらの記事もオススメです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次
閉じる