明治時代の1890年、大日本帝国憲法が施行されました。
イギリスの「マグナ・カルタ(大憲章)」、フランス革命時の「人権宣言」、アメリカの「独立宣言」は、
いずれも人民が壮絶な戦いの末に権力者から権力を取り戻し、
自らの権利を守るために作り上げた経緯があります。
ゆえに、権力を制限するとともに、憲法の主眼が置かれています。


しかし、日本では、その人権や平等という概念を、明治時代にあっさりと輸入し、獲得してしまいました。
これは、現代の権力や人権に対する意識の薄さにも繋がっています。
明治時代、富国強兵により国力が充実してくると、生産力が向上します。
生産力が向上してくると、より多くの燃料が必要になります。
エネルギーを確保するために、その資源のある地域を確保したくなってくるようになります。
冷静に考えれば、当時の日本は、植民地は必ずしも必要ではありませんでした。
この時期の日本は、ロシアへの恐れがありました。
1891年、ロシアのモスクワと極東のウラジオストクを結ぶ、シベリア鉄道の建設が始まります。
シベリア鉄道が完成すれば、ロシアの東アジアへの兵力も一気に集中できるようになってしまいます。
膨張するロシアに対処するには、日本も膨張して備えるしかないという焦りが、日本にはありました。
日清戦争の発端は、朝鮮の支配権をめぐる対立にありました。
日清戦争は、日本の勝利に終わります。
中国は、自国が実は弱体化していたということを、世界中に知らしめるきっかけになってしまいました。
これを契機として、西欧列強がアジアにも目を向けるようになりました。
当時、伊藤博文や山縣有朋は、西欧に対して協調路線を考えていました。
しかし、彼らの姿勢を、世論は「軟弱」として認めませんでした。
世論の方が、「戦争やむなし」という強硬路線を主流としていました。
日露戦争では、1904年、ロシア陸・海軍の拠点である旅順要塞をめぐる攻防がありました。
ロシアのバルチック艦隊の到着前に、日本は旅順を攻略する必要がありました。
乃木希典大将率いる日本陸軍は、3度に渡って突撃を繰り返し、
3度とも多大な犠牲者を出して失敗してしまいます。
3度目の途中から203高地と呼ばれる丘に攻撃目標を絞り、
また満州群総参謀長だった児玉源太郎が乃木に代わって指揮を執ることで、
激戦の末に旅順を奪取します。
そこからロシア艦隊を砲撃して壊滅させます。
旅順を奪った日本は、1905年東郷平八郎大将の率いる連合艦隊が、
バルチック艦隊を追撃して圧勝します(日本海海戦)。
日清・日露戦争を通して日本は、「自国は強い国だ」と思い込んでしまい、
その慢心が、後の太平洋戦争という無謀な決断に繋がって行きました。
執筆者:山本和華子
参考文献 斉藤孝著『齋藤孝の 一気読み! 日本近現代史』東京堂出版



