江戸時代末期、日本に開国のきっかけを作ったアメリカは、実は当初から、日本にとって友好的な国でした。
1894年、日本政府は各国との条約の改正交渉を始めます。
その中で、アメリカとの交渉もスムーズに進んでいました。
ところが1941年から3年半にわたり、日本はそのアメリカと戦ってしまいました。
本来、日米間でぶつかり合うことはありませんでした。
日米開戦は、最後まで回避可能だったのです。
ポーツマス条約(日露戦争の講和条約)により、日本は朝鮮半島における権益を得ました。
しかし、日本は南満州に天皇直属の「関東総督府」を設置し、軍政地域にしてしまいます。
南満州については、ポーツマス条約には書かれていませんでした。
当時、伊藤博文は、満州における軍部の撤退を求めました。
彼はずっと、国際協調外交の努力を続けてきた人物でした。
ところが、伊藤博文は1909年に暗殺されてしまいます。
これをきっかけとして統制が利かなくなり、満州における軍部はいよいよ暴走を始めます。
満州に駐屯した旧日本陸軍の部隊である関東軍は、やがて陸軍中央や政府の意向すら無視し、
暴走していきます。
1914年から、西欧では第一次世界大戦が始まります。
この大戦は、強くなり過ぎたドイツを、欧州各国が抑えるという構図でした。

日本は日英同盟により、イギリス・フランス等の戦勝国側にいたため、「戦争特需」がありました。
西欧各国の生産が落ちる中、輸出の急拡大で日本に好景気が到来したのです。
この活況により、造船、鉄鋼、工業技術が飛躍的に向上しました。
第一次世界大戦を経て、各国は世界的に軍縮を進めるべきという点で意見が一致し、
1920年、国際連盟が発足します。
当時の浜口雄幸(おさち)首相は、もはや武力ではなく国際協調路線でなければ、
日本の繁栄はないと考えていました。
浜口雄幸首相の意を汲み、外務大臣の幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)は、
積極的に協調外交を展開していました。
米英と強調しつつ、1925年には日ソ基本条約を締結し、関係改善の道を模索していました(幣原外交)。
しかし、この流れを逆走するような事件が起こります。
1931年、陸軍は「満州国」の建設を宣言します(満州事変)。
これを機に、日本は世界から「侵略国家」と見なされ、強い非難を受けることになります。
満州事変を首謀したのは、関東軍参謀の石原莞爾(かんじ)でした。
彼は、来たるべき最終戦争に備え、東洋文明がまとまる第一歩として、
満州を支配しておくべきだと考えていました。
当時の日本国民は、「強い日本」を支持していました。
軍人が国益のために戦ってくれているという意識が強くありました。
1923年、関東大震災があり、1929年には世界恐慌が起こりました。
1934年、日本政府はワシントン軍縮条約を破棄し、
1940年には、ドイツ・イタリアと「日独伊三国同盟」を締結します。
アメリカは、日本への制裁措置として、石油の輸出を全面的に禁止します。
そして日本は、アメリカとの開戦を決意します。
執筆者:山本和華子
参考文献 斉藤孝著『齋藤孝の 一気読み! 日本近現代史』東京堂出版



