はいみなさんこんにちは。
今日は、セオドア・グレイシック著『音楽の哲学入門』を要約していきたいと思います。
どの部族・社会も、美的な達成に価値をおく、特別な活動領域があります。
人間だけでなく、蜂もクジラも鳥も、社会的動物と言えます。社会的動物は仲間内でコミュニケーションをとっており、音はそのために便利な道具でした。
しかし、文化をもつ社会的動物は、人間だけであるように思われます。
音楽的パターンが音楽になるには、音楽的構造についての文化的な期待が反映されています。
どういうことかと申しますと、たとえば鳥なんかですと、オスが、自分はどれだけ魅力的な存在であるかをメスに伝えるために歌を歌うことはありますが、それは生物としての役割の音という範疇のみの話であり、社会的文化が反映されているとは考えにくい、ということです。
ジョン・レノンは、「ビートルズは芸術を作るために始めたわけではない。むしろ、実用的な音楽を作るために始めた」と語りました。
彼らは鑑賞されるためにビートルズを組んだわけではありませんでした。彼らは、「地元の椅子(居場所)」という自分たちのスタイルを作り上げました。
ところで、すべての音楽が芸術であるのは、どの音楽もスタイルを持つからです。どの音楽も、それを育んだ伝統に携わろうとします。
伝統への携わり方には、それを素直に受け取る形も、それに抵抗するという形もありますが、いずれの場合も伝統と繋がりを持っています。
どういうことかと言いますと、例えば絵画の「印象派」というスタイルは、それ以前の描き方に対して抵抗、ないしは革新という形で提示されました。
そういう意味では、印象派というスタイルは、伝統に抵抗するという繋がりを持ちました。
しかしビートルズはそうではありませんでした。伝統と繋がらずに、独自のスタイルで音楽活動をスタートさせました。
真にスピリチュアルな経験は、あまりに崇高で比類がないため、言葉では言い表せられないと、一般には考えられています。
しかしながら、そのあまりに崇高なものについて語りたいという願望は捨てがたいとも、人類は思ってきました。
そこで多くの人は、音楽が、言語の限界を突破する手段になるのではないか、と考えました。
音楽には、美しくなくても崇高であれば良いという基準があります。
美と崇高という2つのカテゴリーは、美的反応の違いによって特徴づけられています。
崇高さへの反応には、畏怖や驚愕が含まれ、暗い面もあります。
音楽的な関係は、本質的に啓示的で、覆いの向こうにある実在を示しています。
本書ではさらに、音楽の本質にせまり、また、アートや美の再定義についても言及しています。
もっと詳しく知りたい方は、本書を手に取って読むことをオススメします!
ツイッター(@wakako_kyoto)もやっています。よかったらフォローしてね♪