茶室の入り口は、「にじり口」になっています。
そのにじり口を千利休が思いつくきっかけとなったのは、川辺に浮かぶ舟だったそうです。
川舟の中こそ、亭主と客が運命共同体となれる。
にじり口とは、日常的な世界が無く流れ込んでくることを拒否する口であり、
やっとの思いで潜り抜けることによって、世界が一転するという宗教性すらも持ちます。
中世の将軍に仕えた同朋衆たちは、「能阿弥」「芸阿弥」と阿弥号を名乗っていました。
この阿弥号は、時宗の法名阿弥陀仏の略と言われています。
時宗の阿弥号を名乗ることによって、世俗の身分を超えることが出来ました。
同朋衆は低い身分の出身者が多かったのですが、貴族のそばに仕える必要があったので、
貴族と同座するためには俗世の身分にとらわれない方法をとりました。
っその方法を名前で表現したものが、現在でいうところの茶名(宗なんとか)であり、
かつては阿弥号であったのだそうです。
古来、日本の数寄の世界は仏門への隠遁と深く関わってきました。
数寄の道に浸るために遁世することが、日本の芸道の習いでした。
しかし、遁世と言っても出家ではありません。
普段は世間の仕事をする俗人なのです。つまり半僧半俗。
これが、武野紹鴎や千利休以来の、茶人のあり方だったのだそうです。
次に、茶室のご紹介をしていきます。
有楽苑 如庵(ゆうらくえん じょあん)
織田信長の弟であり、千利休の弟子の一人であった織田有楽が造り、現在国宝に指定されている茶室です。
この如庵は、侘びた表情の中にも随所に意匠が施され、作り手の奔放な遊び心が感じられる空間となっています。
亭主が点前を行う点前座(てまえざ)奥の窓は、竹を詰め打ちにした「有楽窓」と呼ばれるものです。
そこから光が細かく差し込む様子は、如庵ならではの光景となっています。
妙喜庵 待庵(みょうきあん たいあん)
この茶室の広さはたったの2畳で、千利休が建てたとされています。
壁は黒く塗りまわし、一切の景色を消し去りました。
利休はここで、黒の樂茶碗を好んで用いたのだそうです。
大徳寺 弧蓬庵 忘筌(だいとくじ こほうあん ぼうせん)
この茶室は、広々とした12畳となっており、手掛けたのは小堀遠州です。
小堀遠州は、繊細さや優美さを取り込んだ「綺麗寂び」と呼ばれる茶風を築いた、江戸初期を代表する茶人です。
この茶室の特徴は、連続した建物で構成される書院造の一部であるということです。
遠州は建物全体を舟になぞらえ、広がる庭は琵琶湖の景色をイメージしたそうです。
執筆者:山本和華子
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